2014年2月15日土曜日

【STAP騒動の解説 260219】 学問のテーマが政治問題になった時の学者の立居振舞





学問のテーマが政治問題になった時の学者の立居振舞



本来、学問と政治や思想は別のものだが、歴史的にも学問のテーマが政治化することが多い。ガリレオが「地動説」について異端審判にかかった時、(歴史的真偽は別にして)「それでも地球は回っている」とつぶやいたという話はその象徴でもある。


つまり政治や思想が「地球が宇宙の中心だ」というのは別に学問とは関係がないが、「それでも地球は回っている」という学問的事実には変わりはないという話だ。


ダーウィンが進化論を発表した時に、「人は神が創りたもうた」という反論に辟易し、「真実を知るには勇気がいる」と述懐したのもその一つである。


近年では、スターリン独裁時代のルイセンコ学説(共産主義のもとでは穀類・野菜はよく育つ)とか、ヒットラー・ナチス時代のゲルマン民族優位説(後に民族の虐待、虐殺につながる)、アメリカによる地球温暖化政治問題化事件(1988年に自ら言いだして、その後、25年間、アメリカは何もしない)などがその典型的なものである。


最近、日本でも相変わらず「政治や思想は科学の上にある。科学的事実より、政治や思想からの事実を優先すべきだ」という考えがなくならない。ある気象予報士が「温暖化で北極の寒気が蛇行している。アメリカのホワイトハウスがそういうのだから間違いない」とか、アメリカの国務長官が「温暖化に異論を述べる学者は過激な人物だ」といったと報じられるなど、「学問のテーマを政治や思想が指導する」という状態が続いている。


「IPCCは学者の集団だから」というのも、ルイセンコ学派やナチス時代の大学と同じ考え方である。学者の約8割程度は「その時代の権力におもねる」。その原因は学者自体がその学問については良く知っていても、やや純情で世の中の汚れを知らないことや、現在の日本のように研究費のほとんどが役人が決めるというシステムなどがある。


IPCCは学者の集団だが、簡単にいえば「御用学者」の集団であり、1988年(アメリカが温暖化を言いだした年)まで近未来の寒冷化の研究をしていた学者はすべてパージされている。つまり政治と言うのは時に異論を許さず、学問は異論がもっとも大切な活動だから相反する。


もっとも、地球の気温に関しては、「寒冷化」が主流であり、「温暖化」は異論に属する。ただ、異論にお金と権力がついたので、現在では温暖化が主流のように見えるに過ぎない。「ホワイトハウスが言った」とか「アメリカの国務長官が」というのは、学問的な異論側に政府が付いた時に、異論が主流になることを示している。


すでに20世紀の前半、マックスウェーバーが「職業としての学問」という書を著していて、学問がお金のために動くようになったことを鋭く指摘している。学問から離れているので、温暖化のデータが科学的に不正確であることは仕方がないことである。


しかし、日本にも日本人としての誠の心を持った学者がいると思う。だから、学者は学問と「政治や思想」とを分離して、それによって社会に貢献することをもう一度、ここで意識をする必要があるだろう。


(平成26年2月19日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年2月10日月曜日

【STAP騒動の解説 260210】 学問・芸術と報道 「査読委員はわかってくれない」





学問・芸術と報道
 「査読委員はわかってくれない」



暗い話題では「現代のベートーベン」と囃した作曲家が実は作曲をしていなかったという事件があり、明るいほうでは若い女性が新しい万能細胞で画期的な業績を上げたことが伝えられていた。


その若い女性が「論文を査読した学者が、「300年にわたる細胞の歴史を冒とくしている」と理解してくれなかった」と言っていた。これについてテレビでもコメントを求められたが、「普通にあることです」と答えました。


学問というのは相反する2つの側面がある。一つは「これまで築き上げてきた知識と学問体系を大切にする」ということであり、もう一つの活動が「今まで築き上げてきたことが間違いであることを発見する」ということだ。


この2つは全く違う概念で相互に矛盾しているが、それでも両方とも学問としては欠かすことができない。最近ではもう一つ「役に立つ、あるいはお金になる活動」というのが学問の中に混入してきて学会は混乱している。


学問は一つ一つの事実や理論を慎重に積み上げてきて、人間の知恵の集積を行う。それが役に立つかどうかはやがてわかることで、学問が体系化の作業をしているときには「役に立つかどうか」を考えることはできない。


学問が新しい分野を拓いたり、新しい進歩がもたらされても、それが社会で活用されるまでには平均的に30年、ものによっては80年ぐらいかかる。それは当たり前のことで、発見された時にそれが社会にどのように役立つかわかるようなら、「新しい分野」とは言えないからだ。


それはともかくとして、女性の研究者の論文に対して、実験で観測された事実を拒絶した査読委員は、第一の立場(これまで築かれてきた学問体系を大切にする)に立っているからだ。それが間違っているかというとそうでもない。


学問の世界は「正しいこと」がわからない。これまでの学問を覆すようなことは極端に言うと日常的に起こる。たとえば「エネルギーが要らない駆動装置」という発明は膨大にあるが、これまではすべて「間違い、錯覚、サギ」の類だった。それでも、テスト方法や実験結果がきれいに整理されている論文がでる。


でも、「間違い、錯覚、サギ」を見分ける唯一の方法は、「新しいことはまず拒絶してみる」という手法である。この手法が適切かどうかは不明だが、人間の頭脳で真偽を判別できないのだから、それしかないという感じだ。論文審査は書面だけだからである。


もし、新しい発見が本当のことだったら、本人もあきらめないし、どこかで同じ結果が得られるので、徐々にそれが真実であることがわかる。学者はそんなことは十分に知っているので、論文をだし、罵倒されても、「それはまだ証明が不足しているな」と考えて、またアタックする。学問は新しいことを目指すがゆえにそれは宿命と言っても良い。


(平成26年2月10日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ








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