2014年8月5日火曜日

【STAP騒動の解説 260802】 剽窃論 第二章 法律と内規(著作権法と剽窃の内規) (その1)



【STAP騒動の解説 260802】
剽窃論 第二章 法律と内規
(著作権法と剽窃の内規)(その1)


第二章では、第一章で具体的な事例を考えた後、それでは著作権法や理研の内規などがどのように決まっているかについての基礎的な知見を得ることにする。

6.著作権法
日本の著作物は著作権法で守られる。著作物はそれを利用するときには引用が必要である。それでは著作権法では現実にどのように定義され、運用されているのだろうか?
まず、「著作物」の定義は第二条でなされている。
 「第二条 の一  著作物 思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。    二  著作者 著作物を創作する者をいう。」
一般的には「著作物」とは「著作されたものすべて」と錯覚されているが、厳密に剽窃などを論じるときには、著作物は上記の定義に入るものだけである。つまり、「著作物」と呼べるのは、「思想又は感情を創作的に表現は感情」に基づくものでなければならないので、「事実の記載」や「事実の描写」したものは著作物ではない。
このように著作物を狭く定義していること、つまり「人類が作り出した知の財産」のうちの一部しか認めていないのは、次章に整理するが「人間の知の財産は広く社会で活用すべきである」という考え方からきている。つまり「個人の所有権」が万能の時代なので、錯覚している人がいるが、昔から人類には「個人の所有権」より崇高だと考えられているものがあり、それが「共有財産」であり、著作物は一般的には人類共通の財産としている。
第二に「創作的」ということで、創作とは、1)今までになかったこと、2)事実ではなく想像で作ること、の2つがある。ここで一般的には物理や生物など自然を対象とする学問の著述物(自然科学のもの)はすべて除かれる。というのは、自然科学は「自然を明らかにいること」だから、自然科学が明らかにするものは、すべて「太古の昔から自然の中にあるものがほとんど」だからである。
工学的なものは新幹線、航空機など「太古の昔にはなかった」というものが多いので、創作的ともいえるが、このような工業製品は著作権ではなく、工業所有権で守られるのが普通である。その場合は「記載事項」ではなく、「特許請求の範囲」で厳密に権利の及ぶ範囲が決められる。
また科学は「創作」で何かを作ると、対象が自然現象だから「捏造」になることが多く、やはり著作権にはなじまない。そこで、愛知大学の時実象一教授が「図書館情報学」(2009)で書かれているように、「学術論文に掲載されている事実やデータには著作性が無いと考えてよい」ということになるし、さらに実験結果などは、「実験結果の記述は誰が書いても同じような記述になると考えられる」という判例(大阪高裁2005年4月28日)のような判断になるのである。
さらに著作権法は、「表現したもの」という限定を置いている。著作物とは書籍、論文のように言語で書かれたものや音楽などのように表現されたものだけに限られ、「私の頭の中にあるもの」のような表現されていないものは対象とならない。人間の創造物はもともと頭の中に浮かぶものだから、着想の権利は表現される前に存在するが、そうなると、「すでに考えがあった」と言えば権利は無限大になるので、表現したものに限定されている。
次に「引用」であるが、それは著作権法の第三十二条から始まる。
 「第三十二条  公表された著作物は、引用して利用することができる。(後略)」
条文自体は自明なので繰り返して説明する必要はないが、特に注意を要するのは「引用しなければならないのは、著作物(著作権があるもの)」であり、著作権のないものは引用をする必要はない。
私は会社の研究者から大学へ移るときに、著作権法と判例を勉強した。それまでは会社の知的財産部がチェックしてくれるので問題はなかったが、大学に入ったら、おそらく著作権でなにか問題があるかもしれないと考えたからだった。だから法律を勉強して、自然科学の論文は基本的には著作権はないと認識し、さらに、引用するのは自分の論文が厳密になり、読者が原典を調べることができるからと考えて極力、引用はしたが、まさか引用しなければ盗用とは思っていなかった。
小保方さんも記者会見で言っていたが、法律に書いてなく、大学の規則が明示されていなければ、研究室の徒弟制度の中で暗黙の掟を学んでいくしかない。その中には、早稲田大学で言われていたと思われる「コピペはOK」などのものも混在しているので、なにが正しいかは不明瞭である。時には「私の恩師がそういっていた」という類もあるが、学問的厳密さからいえば、「恩師は正しい」とは限らないと考えなければならない。
もともと「あるグループ内の掟」というのはアウトローの考え方で、法律のように社会全体で守らなければならないものを軽視し、仲間内の掟を最重要に考えるという傾向があり、学問のように自由でオープンな社会にはそぐわないと考えられる。
著作権に関する子供への教育では「書いた人の気持ちを尊重しよう」というのが多いが、それとともに「知の財産は人類共通です」という説明もいる。また新聞社などは法令を拡大解釈して「すべての記事は著作権がある」としているが、これも公共性を持つ新聞社としては「知る権利」とのバランスをとる必要があろう。
とかく著作権というものは「権利を持つ側」の論理が優先しがちだが、著作物を読む方も「共通の知を持つ権利」があり、そちらの方が強いことを主張し続ける必要がある。

(平成26年8月2日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





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