2014年8月15日金曜日

【STAP騒動の解説 260804】 剽窃論 第二章 法律と内規(著作権法と剽窃の内規)(その5)




剽窃論 第二章 法律と内規
(著作権法と剽窃の内規)(その5)



5.教育と剽窃


これまで学問領域での剽窃を取り扱ってきたが、この節では「教育における剽窃」を整理してみたいと思う。STAP事件が起こったとき、テレビは「教育での剽窃」、「論文の剽窃」をほぼ同じく取り扱っていた。テレビカメラが学生にインタビューして「先生から必ず引用しろ、コピペはダメだ」と厳しく言われたという映像が流れ、そのあとに「だから、論文もコピペはとんでもない」と続く。実に非論理的だった。


このようなことが起こるのは、教育と研究の差がわかっていないこと、教育より研究が「上位」だから、教育で注意されることを研究する人が守らないでどうするのだという世俗的なことが背景にあると考えられる。


小学校の教育は基本的にはコピペを許さない。それは自分で字を書くこと、文章を書く力を養うことなど、基礎的な「訓練」が必要だからだ。お習字を学ぶときに隣の子供の作品をコピーして先生に提出すると怒られる。それは「お習字で書いたもの」を必要としているのではなく、書いたものは価値がないのだが、書く過程が教育だからだ。


ところが、会社では昨年の入社式次第をコピーしてそれに今年の年だけを書き直すのは「よいこと」である。つまり上手な人が書いた昨年の入社式の式次第は有効に利用すべきであり、わざわざ時間を使って下手な人が作り直す必要はない。そんなことをしたら上司が「少しは頭を使え」と怒るだろう。


教育でコピペが嫌われるのは、「訓練」であり、「作品」には意味がないからだ。事実、私が試験をして学生から膨大な解答を集める。そこには素晴らしい論述もあるが、採点して必要なものだけは取っておくが大半の学生の解答は捨ててしまう。実にもったいないが、教育は学生が論説を書くときに完結してしまうからだ。


私は美術大学で20年ほど教鞭をとった。ある時、学生に課題を出したら素晴らしい作品が提出された。なにしろ美術は学生だから下手な作品をつくるということはない。モーツアルトの5歳、7歳の曲は高く評価されている。あまりによい作品でひょっとしたら値段がつくのではないかと思ったので大学に聞いてみたら、「学生に出した課題で提出された作品の所有権は先生にありますから、先生が価値があると思ったら先生のものです」と言われた。


確かに、学生の作品に勝手に教師が手を加えることがある。作品の指導という意味では、学生の作品が学生の所有物であると、指導することができないこともある。先生の所有なら「こうしたほうが良い」と先生が作品に手を加えることができる。


普段の試験や課題の解答や作品でもこのようなことが多いのだから、卒業論文、博士論文になるとさらにややこしくなる。卒業論文や博士論文は学生から提出されると、普通は主査の先生(指導教官)が見て、学生に修正を求める。特に卒業論文は一人の学生にとって人生初めての論文だから、文章、図表、論理、構成、引用、謝辞にいたるまで指導が必要だ。だから事細かに指導する。


先生が学生に指導するとき、もし学生が修正箇所の多くで「修正しません」と言った場合、論文が通らず卒業できないことになる。すでに就職などが決まっている学生は論文が通らずに就職もできず、学資がなければ退学ということになる。だから、先生の修正の指示はほぼ守る必要があるし、それは学校教育全体も同じである。


ということは普通の卒業論文も先生が所有権を持っていて、学生の名前がそこに書かれているのは単に「最初はこの人が書いた」というぐらいの意味しか持っていない。


ここで注意しなければならないのは、初歩的な議論では「その研究は学生がしたのだから、先生がとるのはズルい」ということが言われるが、学問は作業ではない。最近の実験の作業の多くが自動化されたから、このような議論の延長線上には「実験器具に卒業免状を与える」という奇妙なことになる。


博士論文の場合はやや趣が違うが、基本的には同じである。不十分な博士論文が提出されると、主査の教官は修正を指示する。そしてほとんどすべての場合、学生が修正に応じなければ合格しない。私の場合、主査の先生はOKしたが、副査の先生のおひとりが論文の一部の記述の修正を求めた。私は「これは研究の中心だから修正することはできない」と頑張り、主査の教授がなんとか話をつけてくれたことがあり、私は文章を修正し、概念や理論式は修正しなかった。具体的には「・・・考えられる」という文章を「・・・とも考えられる」と修正した。論文を提出する人が「考えられる」と言っているのだから、それでよいようにも思うが、副査の先生は「学問的に考えられない」という判断だった。それも正しい。


卒業論文や博士論文については、修正をせずに提出されたものが合格なら合格、不合格なら不合格とする方法もあり、その場合は、論文の所有権、著作権、著者としての権限を学生が持つことになるが、その場合は不合格がかなり多くなる。現実とは違う。


ところで、剽窃という意味では全く違うことも教育では考える必要がある。たとえば、「できるだけ多くの資料を探して、早く・・・のレポートを提出せよ。情報の出典は必要があれば記載せよ」という課題を出したとする。一般社会では、自分の調べたものを論文として出すなどということは少ないので、先生は学生が一般社会でできるだけ内容の良い調査を早くできるための訓練をさせることがある。


このような場合、先生はコピペを奨励し、特に図表などはそのまま切り貼りさせる。たとえば、「最近のハイブリッドカーのメカニズムの進化」というレポートを学生に求めたとき、学生が「図表の著作権」などを考えて、切り貼りができなければレポートを作ることはできない。あくまで将来、社内などで使うことを目的とし、かつレポートが提出されれば学生に発表させ、みんなで現状を深く理解するためだから、「剽窃」などは関係がない。


著作権法では教育で使う場合は原則として自由だが、著作権のないものには制限がかかるという逆の関係にある。STAP事件の場合も、著作権のないアメリカ国立機関NIHの文章をコピペして「盗用」、研究不正とされた。著作権がないということは「自由に使ってください」という意味なのに、そういわれて使ったら罰せられたという例だ。またこの時、指導教官が「緒言などは創造性がないから、著作権のないものはコピペしたり、図表は書き換えなくてもよい」と指示したとすると、教官の指示に従ったら「研究不正」と言われたということになる。


博士論文も含めて教育中の作品の所有権は先生にあり、提出した時に不十分だったり、合格作品(論文など)が不適切だからと言って取り消すことはできない。もし社会的制裁を加えるなら、先生が退職するべきである。

(平成26年8月4日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ



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