2014年8月27日水曜日

【STAP騒動の解説 260822】 芥川龍之介談・・・「娯楽」で人を死に追いやる人たち



【STAP騒動の解説 260822】 
芥川龍之介談・・・「娯楽」で人を死に追いやる人たち



芥川龍之介が「輿論は常に私刑であり、私刑は又常に娯楽である。たといピストルを用うる代りに新聞の記事を用いたとしても」とあるが、さすが芥川龍之介で、遠く明治の時代に今日のバッシング文化を鋭く批判している。
この警句が載っているブログの記事に「リンチ(私刑)は許されるか」というのがあった。それによると、(1)この世には「悪いこと」があり、(2)それは罰するべきである、という考えが、現代日本の社会に蔓延していて、ネットという新しい手段で、それが正当化される可能性があるとしている。

恐ろしいことだ。

まず第一に「この世に悪いこと」があるという。そうであれば誰かが「これは悪いことだ」というのを決めなければならない。それは「神様」か「偉人」ということになっている。普通の人が「これは悪いことだ」と決めることはできない。たとえば、浄瑠璃の世界では主君のために我が子を殺すことが正当化される。殺人ですら、常に「正義」の名のもとで行われるのだから、「普通のこと」の「善悪」というのは誰も自分で判断することはできない。

そこで人間は長い歴史の中で「合意」をしていることがある。第一には宗教団体のように任意に参加できる団体内では、その団体内だけで「善悪」を決めることができること、第二に一般社会ではその社会を構成する人(国民)が相互に約束して「これは悪いこと」と決めて法律を作り、税金を出してその法律を政府や警察に守らせるというシステム、である。

また「倫理」と「道徳」は区別されないこともあるが、厳密に言えば、「倫理」の倫は相手という意味だから、相手の理(ことわり)に従うことを意味している。これをいれると、「正しいこと」というのは、宗教団体では神様が決め、社会では法律(約束)が決め、個人的には相手(倫)が決める、ということになる。

ネットでは「自分で正しいことを決めることができる」ということになると、それはこれまでの人間の歴史ではありえないことで、もしネットで「自分が正しいと思うことに基づいて、「悪いこと」を罰する」ということになると、まさに「リンチ」であり、それは「反社会的なこと」で、それ自体が「悪いこと」になる。つまり「悪いことを罰する」という行為自体が「悪いこと」なのだ。

また、私たちの約束事(法律)では、単に「何が悪いか」を決めているだけではなく、「悪いことをした人の自由を奪ったり、罰したりする手続き」も決まっている。これが民事訴訟法、刑事訴訟法で、とても大切な法律だ。

つまり、「なにが悪いか」を決めただけでは不十分で、「悪いことを決める手続き」も同じように大切である。仮にネットの人で神様のような人がいて「悪いこと」を決めることができても、その人が「悪い」と決めれば、即、死刑ということではなく、たとえば「ネットで批判する場合は名前を名乗らなければならない」とか、「批判に対して、同程度の反論の場を与えなければならない」などの細かい手続きが必要だ。

このような手続きが重要なのは、「原理原則」と「それを現実にする方法」が大切だからだ。その意味では、ネットのバッシングは (1)ネットの人が神様になることと、(2)手続きを無視して直ちに「首を跳ねろ!」というような暴君になること、を意味している。

STAP事件のマスコミ・リンチで言えば、NHK、毎日新聞、分子生物学会などが「神様」と「暴君」の役割を同時に果たし、その結果、リンチが成立した例でもある。

(平成26年8月22日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年8月22日金曜日

【STAP騒動の解説 260810】 STAPの悲劇を作った人たち(4) 3番目は言うまでもなく毎日新聞




STAPの悲劇を作った人たち(4) 
 3番目は言うまでもなく毎日新聞


毎日新聞というのは伝統的で素晴らしい新聞でした。満州国建国に際して国際連盟を脱退した時、朝日新聞がその時の政府に迎合して脱退を支持したのに対して、毎日新聞は断固、筋を通し、販売部数を減らしたのです。
沖縄返還の時の日米の密約でも、毎日新聞は断固、メディアとしての立場を貫き、時の政府からいじめられて不買運動に泣いて、朝日、読売の後塵を拝するようになりました。でも、そんな逆境だったからでもあるでしょう、毎日新聞には立派な人が多く、ここでお名前を挙げるのは控えますが、そういえばあの人・・・と思いだします。
その毎日新聞が「窮すれば瀕した」のでしょう。こともあろうに、STAP事件に関する理研の調査が終わり、「不正が確定」(私は不正とは思わないが)し、最後に論文が取り下げられ、日本としては大きな痛手をこうむった後も、毎日のようにSTAP事件の取材を続けて、紙面に掲載していました。
それは、著者を痛めつけたい!そう思う一心の記事でした。そして論文が撤回されて約半月後、毎日新聞は驚くべき記事を全国版の1面に出したのです(7月16日の朝刊と思う)。それは、奇妙奇天烈というか、前代未聞、それとも魔女狩り・・・なんと表現してもそれ以上の醜悪な記事でした。
1)問題となった論文ではないものを取り上げた、
2)若山先生(共著者は小保方さん)が出して拒絶された論文を取り上げた、
3)論文の査読過程のやり取りを「不正」とした。
毎日新聞の記事をたぶん月曜日に読んで、私はあまりのことに絶句した。この記事を笹井さんがお読みになったかは不明だが、関係のない私が読んでもびっくりしたのだから、当事者が読んだら腹が煮えくり返っただろう。

理由
1)掲載に至らなかった論文の原稿は著者の手元にしかない、
2)ましてその査読結果などは執筆担当の主要な著者の手元にしかない、
3)従って、毎日新聞は若山さんから情報を得たか、建物に侵入して獲得した以外にない。
4)掲載に至らなかった論文は欠陥があるから掲載されなかったのだから、その論文に欠陥があるということは当然であり、そのような学問上のことを知らない一般の読者を騙す手法だった、
5)若山さんが自らそんなことをしたら大学教授を辞任しなければならないから、記者が不当な方法で入手した盗品である、
6)すでに掲載された本論文が撤回された(7月2日)後だから、学問的意味も、社会的意味もない。
毎日新聞は沖縄の密約で外務省の女性事務官に記者が接近し「情を通じて」国家機密を手に入れたとされました。行為は不倫で、これを政治家に「情を通じて」と言われて社会が反応し、毎日新聞の不買運動につながりました。私は、国家機密を得るときには小さな犯罪は許されると思っていましたが、今回のことで毎日新聞は性根から曲がっていることを知ったのです。
今回のことを沖縄の報道になぞらえると、「情に通じて」と言われた後、他の新聞やテレビが「どのように情を通じたか」、「セックスの回数は何回だったか」、「最初の時に積極的に体に触ったのはどちらだったのか」などを微にいり細にいり書き立てるのと同じです。人間としてすべきではなく、また興味本位のいかがわしい雑誌が取り上げるならまだ別ですが、天下の毎日新聞だから取り返しがつかない。今後、何を記事にしても国民は毎日新聞をバカにしているから信用しないでしょう。ついに毎日新聞はその誇りある長い歴史に終わりが来ると思います。

【学術的意味】
ここでは、以上のような世俗的な倫理違反とは別に、「掲載されなかった論文の査読経過は意味があるか」ということについて参考までに述べます。論文を提出したことがない人には参考になると思うからです。
人にはそれぞれ考えがあります。だから研究者が「これは論文として価値がある」と思えば、そのまま論文として掲載してもよいのですが、昔はネットのようなものがなかったので、印刷代がかかり、さらに「誰かがある程度は審査したもののほうが読みやすい」ということで「査読」が始まりました。
査読は「論理的に整合性があるか」、「他人が読んで理解できるか」、「すでにどこかで知られていないか」などをチェックし、時には親切に誤字脱字も見ます。しかし、時に研究者は「このデータは必要だ」と思っても、査読委員は「論理的に不要である」としたりしますが、そんな時に、ほぼ査読委員の通りにしておかないと論文は通りません。
また、研究者は自分の研究に思いいれがあるので、若干、論理が通らなくても「言いたいこと」がある場合も多いのですが、査読委員は他人なので冷たく削除を求めることもあります。その他、いろいろあって、毎日新聞の記事のように5ケのデータのうち、査読委員が修正を求めたので、2つを削除したということをとらえて、「これは不正をするためだ」と邪推するのは科学の世界に感情を持ち込むことだから、この記事は断じて科学者としては許せないのです。
おまけにこの論文は「掲載が認められていない」のですから毎日新聞が指摘したことそのものが指摘の対象になっていたかも知れません。査読委員が問題にしたことを、著者がいやいや削除したとすると、それを不正だというのは査読委員が不正ということになります。
そしてこの問題は、さらに取材方法が偏っていることです。
まず第一に若山さんが出した論文なのに若山さんに取材していません。当時、若山さんは理研の研究者で、小保方さんは臨時の無休研究員です。だから、共同著者のうち、若山さんにその事情を聴くべきですし、聞いても若山さんは答える必要もありません。「それは取り下げた論文ですからいろいろなことがありました」と言えばよいのです。
私は近年、これほど醜悪な記事を見たことがなく(大新聞の一面)、またこの記事もSTAPの悲劇を生んだ一つとして検証されるべきであり、このようなメディアの力を使った精神的リンチによる殺人の可能性について、司法は捜査を開始すべきと考えられるほどひどい記事です。言論の自由は無制限ではなく、大新聞が個人をめがけて圧倒的で不当な攻撃を続けるのは犯罪だからです。
その時の私の感想は「論文を取り下げても、ここまでやってくるのか? これは記者の出世のためか、または毎日新聞の販売部数を増やすためか」と思ったのです。たとえば理研の不正、日本の生物学会関係の腐敗を報じるなら、それ自体を取材して報じるのがマスコミというもので、掲載されなかった論文の審査過程を読んで日本の研究の不正を推定するなどはしません。
また、掲載されない論文の査読過程で何が起こっても犯罪でも研究不正でも倫理違反でもありませんし、そんな規則、内規、法律もないのです。記者は新聞という巨大な力を身につけて「裁きの神」になったのでしょう。
毎日新聞はとりあえず、「掲載されなかった論文の査読過程の修正」が「ある人から見て不適切」というだけで、なぜ「全国紙の1面に載せるほどの大事件」と判断したのか、新聞さとして論理的に示さなければならないと思います。

(平成26年8月10日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年8月20日水曜日

【STAP騒動の解説 260820】 日常的なことと研究



日常的なことと研究


人間の活動にはさまざまなものがあり、あることをしている人は、まったく別の人生を歩んでいる人のことを理解するのは難しい。たとえば、「日常生活」と「研究」というものを取り上げてみると、
日常的には「今、わかっていることを真実と思って行動するしかない」
研究は「今、わかっていることは間違っていると思っている」
ということになる。
紫式部の時代には、「人間には生まれながらに貴賤がある」とか、「大根を煮るときには薪(たきぎ)が必要だ」と思っていて、それが変わることなどないし、貴賤を無視して平等だと言ったら殺され、電子レンジを使えばよいと言えば気がふれていると思われる。
でも、現在では「平等」も「電子レンジ」も日常生活の中で受け入れられている。でも、1000年前にはなかったのだから、いつの時代かに「今、わかっていることは間違っている」と思った人が一つ一つ、新しいことを発見し、発明してきた。
現代の日本を見ると、「日常的なことをしている人で、常識的な人」があまりに威張っているように見える。「そんなの当然じゃないか!」と怒鳴り、「そんなの非常識だ」と叫ぶ。でも本当の常識人というのは、「自分が今、正しいと思っていることは間違っている」ことを知っている人だろう。
1000年後、現代の日本の常識人は笑い者になるだろう。でも、現代でも「常識人」はそのことを実は心の底でわかっているようにも思える。というのは、STAP事件にしても、温暖化にしても、「常識」を言う人はいつも「怒りっぽい」。それは本当のことまで議論が進むことを恐れているのだと私は思う。

(平成26年8月20日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ

2014年8月19日火曜日

【STAP騒動の解説 260815】 剽窃論 第三章 知的財産の人類的意味 その2




剽窃論 第三章 知的財産の人類的意味その2



2.学問における他人と自分・・・学者のプライド


「利権」だの「ごまかし」だのとつまらない話が続いたが、実は剽窃論の中心はもっと崇高なものである。私も学者の一人だが、私たちは人類に「知の財産」を提供することを業としている。コメやサカナを捕る仕事、自動車や家電製品のように物品を提供する仕事、家事や育児、床屋、デイサービスなどのサービスを提供する仕事などがこの世にあるが、その一つが「知的財産の提供業」がある。


知的財産の提供業としては、学者、作家、画家、音楽家、戯曲家、番組制作業などがあり、放送業、出版業は知的財産の拡散業で通常は収益を目的としている場合が多い。学者以外も同じだが、学者としての仕事は原則として「非営利」であり、仕事の動機は「興味、探求心」などであり、人間の性質に含まれるこの種のものを原動力にして仕事をする。


多くの人が「趣味の生活」や「自分のやりたいことをする」という人生を望んでいるのだが、なかなかこの世はそうはいかない。ほとんどの人は「手間賃」(他人を車で運ぶタクシーの運転手さん、卸から品物を買って小分けして売る小売商、全自動ができないんで組み立てる自動車工などで立派な職業)で生活している。知恵をもとにして仕事をする弁護士さん、会計士さん、お医者さんなども「自分の好きなことをする」のではなく、「知恵を使った手間賃」というところがある。


それに対して学者というのは実に自由な職業で、「自分で何を研究するかを決め」、「自分で自由に研究し」、「嫌いなったらいつでも止められる」というのだから、世にも珍しい仕事だ。でも大学教授のほとんどはそうだし、理研などの研究機関も若干の縛りはあっても、やはり自由が多い。


しかも、研究費は自分のお金ではない。お金も出さない、自由奔放に研究ができる、それに学会発表に行くのに国内はもとより海外まで行ける、さらに結構、他人は「先生」と言って尊重してくれる・・・だから、私は自分の仕事の成果が「公知」になることがプライドだった。誰でも私の研究結果、文章、式、なんでもどういう形でも利用してください、なにも求めませんということだ。それは当たり前で、お金から場所からテーマからやり方まで自由に与えてくれるのに、それで何かの権利を主張する方がおかしい。


だから私は「学問の結果は共有物」との認識が強く、「誰」とか「何時」というものを問題にしなかった。当時(私が完全に現役の時)、「属人的、経時的なことはすべて排除する」と言っていた。たとえば「トインビーが1960年代に著した歴史の研究で、民族が目覚めるときは」と書くところ、「歴史学によると民族が目覚めるときは」と書き、もちろん文献も引用しなかった。


学生があるデータを整理して持ってきたら、「君、このデータも入れて整理したらよい」と言って他の学生のデータを示した。学生が「それは**君のデータだから」というと、「科学に「誰」ということはないよ。データに所有権はないし、仁義もないから」と教えた。


ところが、「学問には人も時も関係がない」という私の考えは多くの人は受け入れてくれなかった。だから、現実には、他人の業績(私に言わせれば人類共通の成果)を引用したり、学生に「とはいっても、整理するときだけ人のことを忘れて、レポートの末尾に彼の名前を入れておいた方が良いだろうね」と言った。妥協していたが、本当は不本意だった。


学問は真実を追求するものであり、それは人間にとって困難なことだ。だから、できるだけ「事実や因果」と関係のないものを考えないようにして、純粋にデータと向き合わないと真実がわからないと思っていた。学生にも、「自分のデータ、他人のデータと区別していたら事実は分からないよ。全部、自然のものなのだから」と教えていた。


そんな私にとってみると、もともと剽窃などということの意味も理解が難しい。著作権や特許権は社会が権利として認めているのだから、それに従うが、権利もないものを自由に使ってはいけないと言われると、その理由を聞きたくなる。聞いてみると、「その人に悪い」とか、「自分の業績を膨らまそうと思っているのか」といった、およそ学問に関係のない理由を言われる。まったく納得できない。


学問に身を投じたのだから、すでに禊は済んでいて、「学問の前に個は捨てる」ことはできている。「個」がないのだから、「他人」も「自分」もなく、「遠慮」も「業績」もない。自分がこの研究を考えるのに使うべきだと思うものは自分であるとか他人であるという意識はない。また自分が使っている言語、思想、概念、理論式、解析方法、データなどおそらくは99%は、言ってみれば他人のものであって、自分が独自にやることは自分の著作物であっても1000分の1を上回ることはあるまい。だから学問には自分はもともと無い。


自分が「個」から離れて「真実」と向き合うとき、はじめて私は「学問にたずさわる喜びと感激」を味わうことができる。人から評価されるかとか、そんなことは一切、私の心にはない。それでも不満には感じない。お金も場所も地位も提供してもらい、自分勝手に研究したのだから、もう求めるものはないからだ。


剽窃論の中心がここにあると思う。だから私は「剽窃」という言葉自体が学問への冒涜と感じられるのだ。

(平成26年8月15日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年8月17日日曜日

【STAP騒動の解説 260817】 剽窃論 第三章 知の財産の人類的意味




剽窃論 第三章 知の財産の人類的意味


1.「知の財産」の意味
このところの地球は13万年ごとに寒くなったり暖かくなったりしているが、現代の私たちの住んでいる時代はちょうど13万年の周期の温暖期の2万年に当たる。そろそろ寒くなる時期で、あと5000年も経つと日本は一面の氷河におおわれて人は住んでいないと推定されている。
一つ前の温暖期にはネアンデルタール人がいたけれど、彼らは10人ぐらいの集団を作り、主として狩りをしながら生計を立てていたと考えられている。文化人類学などの知見によるとその頃でも原始的な所有権の概念があり、あたたかい洞窟の中の場所や鋭い矢じりなどはその集団で最も力の強い男性の所有物であった。しかし、なぜそれらが「所有物」になるかというと、洞窟の一か所を占有していると、同一空間に別のものが入れないので一人の独占になる。矢じりもまた同じだ。
現代でも同じで、自動車を持っているとその自動車に乗ってあちこちに行くことができる。ところが、その人の隣に住んでいても、自動車を持っている人といくら親友でも、自分が自動車を持っていない限り、自動車に乗ることができない。このように「物」というのには所有権があり、その人だけしか、その物の恩恵にあずかることはできないのが大きな特徴だ。
ところが、先のネアンデルタール人の集団でも、誰かが「あの坂を上ったところを左に曲がるとウサギが捕れる」という情報を口から出すと、その瞬間にその「知の財産」はその集団全員の共通の所有物になる。聞いていた人の頭にはその「知の財産」が入っているし、聞いていなかった人はない。でも外から見てもどこから見ても、だれがその知の財産を持っているかも判別できない。
しかし、それは確実に「財産」である。知っている人はウサギを手に入れることができるし、知らない人はウサギを捕ることができない。つまり知の財産を行使しなければウサギは手に入らないが、行使すれば手に入るから「準所有権」のようなものである。
近代になって印刷物ができてから、たとえばトルストイが「戦争と平和」という素晴らしい小説を書く。まず小説を紙に印刷すると何百万人という人が同時に、トルストイの創造力や知に接することができる。さらに、図書館からトルストイの「戦争と平和」を借りて読むと、その人の頭の中にある物語は二度と再び消し去ることはできない。
つまり、印刷物というのは形を成しているように見えるが、そこに書いてある「字」は単に伝達するときに必要なだけで、知の財産そのものはトルストイから読者へ伝わってしまう。もちろん、文学ばかりではなく、音楽、絵画、科学などすべて同じだ。
ダーウィンが進化論を唱え、「人間はサルから生まれた」という素晴らしい知の財産を私たちに提供してくれたので、ダーウィンの著作を読まなくても、また何回使っても、人間の頭からダーウィンがくれた知の財産は減ることもなく、去ることもない。このブログに書いた「五条川の桜」も、読者の方からメールをいただいた「夏の花火」も、景色という知の財産であり、見た人はその瞬間にその美しい景色が脳に焼き付き、その後、その人の所有物になる。
つまり、「物」はそれを所有する人だけに恩恵を与え、古くなったり、捨てたりすればそれで終わりだがが、人が生み出した知だけは消えることなく、人間社会の中で拡散し、永久に残り、利用される。
それでは、誰かが「人はサルから生まれた」と「思う」たびに、それはダーウィンが発見してくれたことだから、常にダーウィンの名前をだし、その対価、つまりお金をダーウィンに払わなければならないのだろうか。日本語を話すときには必ず日本語を作った人、または明治の初めに「民主、国家・・・」などの多くの熟語を作った福沢諭吉の名前を出す必要があるのだろうか? それは人類の歴史が始まってからすべては共有財産だった。
ところが、社会が複雑になり、18世紀のイギリスで知の権利に対して関心が高まった。それまでは物の所有権しかなかったが、人間の知の産物に対しても権利を認めようではないか、そうしたほうが知の財産が増えるのではないか(社会的に得をするから個人に権利を与えたほうが良い)ということになった。
でも、「物の所有権」は人間本来の権利であるが、「知の所有権」は「入会権」(ネアンデルタールの時代に、洞窟の奥の場所と鋭い矢じりには所有権があっても、みんなで獲物を取りに行く森は共通財産)と同じとされた。それは現在でも同じで、まったく変化していない。「物」の権利は普遍的だが、「知」のほうは共有が基本で、特別の場合に権利を認めている。第一、書籍とか写真のように「形」になっている知の財産はまだ保護の使用があるが、人の頭に入っている知は、それに他人が権利を主張しようとしても現実的に実施する方法がない。ある人から「その知識は俺のものだ」と言われても、頭の中の知識を捨てることもできない。
そこで、知の財産に特例を設け、著作権(表現しているもの)と特許権(現在は工業所有権。請求範囲が特許庁などの公的機関で確定しているもの)に限定して「時限的に」権利を与えることになった。だから「表現されているもので、法律で定められている著作権」と「権利範囲が明示されている工業的産物」だけが共有財産で、理研の内規で定められている「他人の考え、実験方法、事実としての実験結果」などは誰がいつ使ってもよいものだ。
しかし、このことがあまりはっきりと社会に認知されていない隙をついて、過度に権利を主張しようとしているのが、学者、メディアなどの情報を発信できる立場の「知識人」なので、混乱が生じている。知識人は「知」で商売をしているので、どうしても自分の知を守ろうとするし、それを少しでも収益に結びつけようと画策する。また知の財産の所有権がもともと難しいので、素人をごまかすのは容易でもあるので、社会はついだまされる。
2014年のSTAP事件や、2011年の福島原発事故の3号機爆発映像などは専門家が知の財産について社会をごまかした典型的な例でもある。その意味で、ごまかす方も必死で、総がかりであり、NHKが数度の特集を組んだのも法律(著作権法や放送法)を破ってまで利権を守る行為だった。

(平成26年8月17日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ



2014年8月16日土曜日

【STAP騒動の解説 260815】 剽窃論 第二章 法律と内規(著作権法と剽窃の内規)(その6)




剽窃論 第二章 法律と内規
(著作権法と剽窃の内規)(その6)



6.第二章のまとめ


さて、この章では剽窃とは何かということを「法律と内規」、それから「学問領域、教育」に分解して議論を進めてきた。その結果、わかったことは、次のことである。
1)法律は整備されていて合理的である、
2)内規は村の掟で誰でも任意に罰することができる、
3)したがって内規を用いて不正という人はアウトローである、
4)このことは理科系でも文科系でも同じである、
5)教育の剽窃はあらゆる場合に成立しない。


学問は普遍的であり、特定の「人間」などに的を当てるものではないので、その点では現在の日本の研究機関における剽窃の規定はすべて学問にはなじまない。まして2014年7月に日本学術会議がSTAP事件で小保方さんの処分を急ぐべきだと勧告したと報じられているが、私はまったく異なる考えである。


科学が嫌うのは「魔女狩り」であり、「魔女狩り」を退治したことが科学のプライドでもある。科学は人間の闇の心に光を与え、闇をなくすのが科学の一つの役割でもあるからだ。現在、名古屋駅前で異常気象の原因と言って女性が火あぶりにならないのはとても良いことだ。それこそが科学の成果である。


しかし、文科省が推奨している「剽窃」の基準を使えば、現代の魔女が火あぶりになる。それこそが許されざるものであると私は思う。ただ、これは武田という個人がそう思うだけで、多くの日本の科学者、評論家、日本学術会議、理研、文科省などは魔女狩りを推奨しているのも事実なので、現代でも魔女狩りが必要なのかも知れない。


また本章の整理をすることで、次のような結論を得た。
1)学生の作品の所有権(著者)は先生である、
2)学生の作品に問題があればその責は先生が負う、
3)研究で「引用」の意味がはっきりしていない、
4)「引用」の必要性が文章で曖昧で、口伝になっているのは学問とはなじまない。


しかし、奇妙である。あらゆる社会的活動の中でもっとも利権と無関係で、誠実、事実、論理などが大切な学問領域でなぜこのような不合理、非論理的なことが起こるのだろうか? 多くの一般の人がそう思うに違いない。


でも、残念ながら科学に長く身を置いた私は、それは仕方がないと思う。というのは学問の世界、教育の世界は一般社会に比べて、妬み、親分子分、不合理、不当な圧力などが満ち満ちているからである。


第一章、第二章の整理を行って、私がもっとも驚いたのは(自分で整理して自分で驚いた)のは、「剽窃で処分を受ける人」が正しく、「剽窃を言って他人をバッシングする人」が社会的な正義に悖る人だったということだ。著作権にも触れず、守ることが不可能な規則を盾に取られて剽窃を言われるのだから、近代国家とも思えない社会の反応である。


しかし日本社会は剽窃で責められている人を悪人をして取り扱っている。これは、現在の日本社会が「公的な財産」を忘れて、「すべてのものには個人の所有権がある」と固く信じていることによると考えられる。日常的な生活では家の前は公道で誰が歩いても構わないし、公園に行けばベンチがある。しかし、それらは本来的に公共のものではなく、税金を払っているので、所有を強要しているだけという感覚である。


人間という集団が本来持つ財産という概念は、個人主義の社会で大きく後退しているように見える。しかし、仮に「公園のベンチ」が本来的な共有財産ではなく、みんなで税金を払っているから共有だというなら、理研の研究費もまた税金で行われている。人類の知の財産はもともと共有財産であるし、さらに加えて理研の研究は税金で行われているのに、それを所有物のように考えることが事件を引き起こしているようにも見える。


アメリカの国家的著述物がアメリカ人全体の財産であるとされているのに対して、日本政府の刊行物は必ずしも共有財産ではない。第一章の冒頭に示した厚生省から国立研究機関の所長になった人が朝日新聞の故なきバッシングを受けたのも、このあいまいさが原因している。


さらなる研究が必要である。

(平成26年8月15日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年8月15日金曜日

【STAP騒動の解説 260804】 剽窃論 第二章 法律と内規(著作権法と剽窃の内規)(その5)




剽窃論 第二章 法律と内規
(著作権法と剽窃の内規)(その5)



5.教育と剽窃


これまで学問領域での剽窃を取り扱ってきたが、この節では「教育における剽窃」を整理してみたいと思う。STAP事件が起こったとき、テレビは「教育での剽窃」、「論文の剽窃」をほぼ同じく取り扱っていた。テレビカメラが学生にインタビューして「先生から必ず引用しろ、コピペはダメだ」と厳しく言われたという映像が流れ、そのあとに「だから、論文もコピペはとんでもない」と続く。実に非論理的だった。


このようなことが起こるのは、教育と研究の差がわかっていないこと、教育より研究が「上位」だから、教育で注意されることを研究する人が守らないでどうするのだという世俗的なことが背景にあると考えられる。


小学校の教育は基本的にはコピペを許さない。それは自分で字を書くこと、文章を書く力を養うことなど、基礎的な「訓練」が必要だからだ。お習字を学ぶときに隣の子供の作品をコピーして先生に提出すると怒られる。それは「お習字で書いたもの」を必要としているのではなく、書いたものは価値がないのだが、書く過程が教育だからだ。


ところが、会社では昨年の入社式次第をコピーしてそれに今年の年だけを書き直すのは「よいこと」である。つまり上手な人が書いた昨年の入社式の式次第は有効に利用すべきであり、わざわざ時間を使って下手な人が作り直す必要はない。そんなことをしたら上司が「少しは頭を使え」と怒るだろう。


教育でコピペが嫌われるのは、「訓練」であり、「作品」には意味がないからだ。事実、私が試験をして学生から膨大な解答を集める。そこには素晴らしい論述もあるが、採点して必要なものだけは取っておくが大半の学生の解答は捨ててしまう。実にもったいないが、教育は学生が論説を書くときに完結してしまうからだ。


私は美術大学で20年ほど教鞭をとった。ある時、学生に課題を出したら素晴らしい作品が提出された。なにしろ美術は学生だから下手な作品をつくるということはない。モーツアルトの5歳、7歳の曲は高く評価されている。あまりによい作品でひょっとしたら値段がつくのではないかと思ったので大学に聞いてみたら、「学生に出した課題で提出された作品の所有権は先生にありますから、先生が価値があると思ったら先生のものです」と言われた。


確かに、学生の作品に勝手に教師が手を加えることがある。作品の指導という意味では、学生の作品が学生の所有物であると、指導することができないこともある。先生の所有なら「こうしたほうが良い」と先生が作品に手を加えることができる。


普段の試験や課題の解答や作品でもこのようなことが多いのだから、卒業論文、博士論文になるとさらにややこしくなる。卒業論文や博士論文は学生から提出されると、普通は主査の先生(指導教官)が見て、学生に修正を求める。特に卒業論文は一人の学生にとって人生初めての論文だから、文章、図表、論理、構成、引用、謝辞にいたるまで指導が必要だ。だから事細かに指導する。


先生が学生に指導するとき、もし学生が修正箇所の多くで「修正しません」と言った場合、論文が通らず卒業できないことになる。すでに就職などが決まっている学生は論文が通らずに就職もできず、学資がなければ退学ということになる。だから、先生の修正の指示はほぼ守る必要があるし、それは学校教育全体も同じである。


ということは普通の卒業論文も先生が所有権を持っていて、学生の名前がそこに書かれているのは単に「最初はこの人が書いた」というぐらいの意味しか持っていない。


ここで注意しなければならないのは、初歩的な議論では「その研究は学生がしたのだから、先生がとるのはズルい」ということが言われるが、学問は作業ではない。最近の実験の作業の多くが自動化されたから、このような議論の延長線上には「実験器具に卒業免状を与える」という奇妙なことになる。


博士論文の場合はやや趣が違うが、基本的には同じである。不十分な博士論文が提出されると、主査の教官は修正を指示する。そしてほとんどすべての場合、学生が修正に応じなければ合格しない。私の場合、主査の先生はOKしたが、副査の先生のおひとりが論文の一部の記述の修正を求めた。私は「これは研究の中心だから修正することはできない」と頑張り、主査の教授がなんとか話をつけてくれたことがあり、私は文章を修正し、概念や理論式は修正しなかった。具体的には「・・・考えられる」という文章を「・・・とも考えられる」と修正した。論文を提出する人が「考えられる」と言っているのだから、それでよいようにも思うが、副査の先生は「学問的に考えられない」という判断だった。それも正しい。


卒業論文や博士論文については、修正をせずに提出されたものが合格なら合格、不合格なら不合格とする方法もあり、その場合は、論文の所有権、著作権、著者としての権限を学生が持つことになるが、その場合は不合格がかなり多くなる。現実とは違う。


ところで、剽窃という意味では全く違うことも教育では考える必要がある。たとえば、「できるだけ多くの資料を探して、早く・・・のレポートを提出せよ。情報の出典は必要があれば記載せよ」という課題を出したとする。一般社会では、自分の調べたものを論文として出すなどということは少ないので、先生は学生が一般社会でできるだけ内容の良い調査を早くできるための訓練をさせることがある。


このような場合、先生はコピペを奨励し、特に図表などはそのまま切り貼りさせる。たとえば、「最近のハイブリッドカーのメカニズムの進化」というレポートを学生に求めたとき、学生が「図表の著作権」などを考えて、切り貼りができなければレポートを作ることはできない。あくまで将来、社内などで使うことを目的とし、かつレポートが提出されれば学生に発表させ、みんなで現状を深く理解するためだから、「剽窃」などは関係がない。


著作権法では教育で使う場合は原則として自由だが、著作権のないものには制限がかかるという逆の関係にある。STAP事件の場合も、著作権のないアメリカ国立機関NIHの文章をコピペして「盗用」、研究不正とされた。著作権がないということは「自由に使ってください」という意味なのに、そういわれて使ったら罰せられたという例だ。またこの時、指導教官が「緒言などは創造性がないから、著作権のないものはコピペしたり、図表は書き換えなくてもよい」と指示したとすると、教官の指示に従ったら「研究不正」と言われたということになる。


博士論文も含めて教育中の作品の所有権は先生にあり、提出した時に不十分だったり、合格作品(論文など)が不適切だからと言って取り消すことはできない。もし社会的制裁を加えるなら、先生が退職するべきである。

(平成26年8月4日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ


2014年8月14日木曜日

【STAP騒動の解説 260810】STAPの悲劇を作った人たち(3) 2番目は学問より政治が好きな学者たち




STAPの悲劇を作った人たち(3) 
2番目は学問より政治が好きな学者たち


先回の記事にまとめたように、理研の調査報告書ほど奇妙なものはありませんでしたが、1)論文は複数の著者で書いていて、故笹井さんが中心になって執筆したとされているのに小保方さんだけを研究不正の調査対象にしたこと(筆頭著者が責任を持つというのは特定の学会の掟に過ぎない)、2)不正とされた写真2枚はすでに調査委員会が調査を始める前に自主的に小保方さんから提出されているのに其れに触れずに不正としたこと、3)写真を正しいものに入れ替えても論文の結論や成立性は変わらないこと、4)理研の規則には「悪意のないときには不正にはならない」と定めているのに「悪意がなくても悪意とする」としたこと、などが特に奇妙でした。


そして、調査結果に対して不服があれば再調査するとしておきながら、再調査はしないとしたり、調査委員長がSTAP論文と同じミスをしていたのに辞任だけで研究不正とはしなかったことなど、実に不誠実な経過をたどったのです。


しかし、その後の展開もさらに奇妙なものになったのです。2014年5月にSTAP事件に関する理研の最終報告書がでると、メディアは「論文の不正が確定した」と報道し、さらに論文が取り下げられると「これですべてゼロになった」としたのです。つまりメディアと理研で、研究者を不正として非難を展開し、論文を取り下げざるを得ないようにし、2014年7月2日にSTAP事件は、論文が取り下げられたことによって、
1)不正が確定し、
2)もともと何もなかったことになった。
 のです。しかし、その後、さらに社会は奇妙な方向に進みます。それは
3)STAP細胞の再現性が得られれば良い、
4)STAP論文にさらに別の不正がある、
 と言い始めたのです。この奇妙な仕掛けをした人はまだ特定できませんが、もともとこの事件はSTAP論文にあり、その論文が取り下げられたことで「ゼロになった」としたのですから、STAP細胞があるかどうか、つまり研究が成功したかどうかも問題ではありません。


(もちろん、「再現実験」などは科学的にあまり意味のないことで、価値のある研究ほど論文の再現性には時間がかかりますし、再現性があるかどうかは科学的価値とは無関係です。)


ですから、日本社会が正常なら、STAP研究は社会の目から遠く離れて、また2013年までのように「理研内で静かに研究ができる」という環境に戻ったのです。今頃、笹井さんも小保方さんも通常の生活に帰り、理研かあるいは別の場所で研究を続けていたでしょう。


小保方さんは研究は順調で、論文にケアレスミスはあったけれど、ウソやダマシはないと言っていましたし、笹井さんも記者会見や取材で「自分のチェックが甘く論文に欠陥があったことは責任があるが、研究は順調だ。論文に示された4本のビデオからも研究が有望であることがわかる」ということを言っておられました。


ところが、この経過の中で再び火の手が上がったのです。それが、若山さん、メディアの登場していた研究不正に関する専門家と言われる人たち、そして分子生物学会を中心とする学者や日本学術会議でした。私はメディアに登場する専門家の方の論文を調べてみましたが、暗闇の中で苦しく創造的な研究の経験のある人はおられませんでした。


その中で、若山さんは何が目的であったかはっきりしませんが、共同研究者でなければわからないような日常的で小さなことを何回かにわたってメディアに暴露を繰り返しました。特に「マウスが違っていた」とか、「小保方さんがポケットにマウスを入れて研究室に入ることができる」など、研究内容より人格攻撃と思われることを言われたのにはびっくりしました。


私は研究者が身内をかばう方が良いと言っているのではなく、犯罪も被害者もなく、論文も取り下げたのですから、研究の内部の人だけが知っている細かいことを言う必要がないのです。特にマウスの問題は若山さんのほうが間違っていました。


次に、研究不正の専門家ですが、理研内部の人、東大東工大グループと称する匿名の人、京都大学の人、それに医学部出身者を中心にして、きわめて厳しいコメントが続きました。すでに理研の調査が終わり、「不正が確定した」とし(わたしはそう思わないが)、論文が取り下げられ、もしくは取り下げの手続きが進んでいるのですから、その論文の欠陥をさらに追及したところでまったく意味がありません。


また、論文を執筆したのは最初は小保方さんと錯覚されていましたが、すでに3月ごろには笹井さんが中心になって書き直したことがわかっていましたし、若山さんの力では論文が通らないので、笹井さんの知識をもって論文をまとめたこともわかっていたのです。研究不正の専門家は研究不正という点では知識があると思いますが、研究そのものについてははるかに笹井さんのほうが力があると考えられますから、普通の学者なら「私より力のある人が書いたものだから」と遠慮するのが普通です。


それに加えて分子生物学会が学会としての声明を出しました。3月11日の理事長声明をはじめとして、7月4日の第3次声明が続き、論文が撤回された後も、「不正の追及」をするように理研に求めました。この声明に答えて、学会幹部も声明を出しました。たとえば大阪大学教授が理事長声明を支持することを社会に向かって表明し、「STAP論文はネッシーだ」という趣旨の発言もあったと伝えられています。


学問というのは「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というような不合理を排するものですし、STAP論文で指摘されているのは(ネットの匿名を除いて)、「写真2枚のミスと1枚の加工」だけであり、「その裏に理研の腐敗体質がある」かどうかは不明なのです。理事長声明はSTAP論文に関する研究に大きな不正があったとして、理研にその返答を求めていますが、学会が伝聞によってある特定の研究者や研究機関を批判するのは、好ましくないことです。


学会は学問的に間違っていることを明らかにすることはその役目の一つですが、組織の運営や研究者個人の人生にも活動を及ぼすものではありません。普通なら笹井さん、若山さん、小保方さんの発表を聞きに行って、自分が疑問に思うことを質問するとか、学会単位なら、研究者を丁寧に研究会にお呼びして、ご足労をお詫びし、疑問点を質問するということをします。


このような活動は「学者は学問的なことに興味がある人」だからで、「運営、管理、虚偽などには興味がなく、また自分の研究時間を犠牲にしてそんなものに関係する時間も惜しい」のが普通です。


私は、ネットの人、理研内部の人、研究不正の専門家という人たち、それに分子生物学会の学者の方は学問には興味がなく、管理運営などにご興味があるということなら、学会から去っていただき、別の仕事をされたらよいと思うのです。学問は比較的簡単で、人を批判しなくても自分でよい仕事をすれば、みんなは評価してくれるからです。


「学者なのにいやに政治家のようだな。自然より人間に興味があるのかな?」というのが私の感想です。この人たちがSTAPの悲劇に加担することになりました。

(平成26年8月10日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





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