2014年4月18日金曜日

【STAP騒動の解説 260418】 知の鍛錬(2) 学問とコピペの2:文章は「カス」か「知」か?





知の鍛錬(2) 学問とコピペの2:
文章は「カス」か「知」か?



さて、アインシュタインが私たちに示した知は、1)概念、2)理論式(実験の場合もある)、3)説明、である。学問や人類にとって最も大切なのは「相対性原理と言う概念」であり、さらに「具体的な計算ができる式」である。たとえばエネルギーは次式で示すことができるが、これがあるから太陽光発電のもとになる太陽のエネルギーや熱も計算ができる。


しかし、アインシュタインの「説明」は何らかの意味があるのだろうか? もし、私たちの学力がアインシュタインをはるかに超えていれば、アインシュタインは前回のこのブログに示した式を5,6ケ示して、だから相対的なのだと書けばよいだろう。


でも、私たちは頭が悪い。だから、アインシュタインは「この論文を読む程度の人なら、このぐらいから説明しておく必要があるだろう」と推定して、(本当は不必要だが)解説する。それが論文の「文章」のところだ。


ここは「知の実体」が理論式や観測データ、計算値にある自然科学と、文章に意味のある法律や文学などとの違いと思われる。だから、相対性原理の論文の説明は、アインシュタインが書いても、アインシュタインの知人が彼から話を聞いて書いても、同じ文章になる。だから、文章は「必須のもの」ではないことがわかる。


つまり、科学論文の文章は知的内容の無い単なる説明だから、知としては「カス」の部分である。


また、「知的なもの」で「自分の頭に入り込んだもの」は自分がどういう形でそれを利用しているのか、明示的にわかるものではない。つまり、私が今、「私」と書いたとすると、「私」という字を発明した人、「わたし」と読むと決めた人、自我についての哲学の認識などが前提であって、それも「借用している」ことには相違ない。


つまり、「物品」なら、人の自動車を運転して初めて「人のものを使う」ことになるが、「知恵」は頭脳の中に溶け込んでいるので、区分けすることが難しいという現実問題があり、文章は「理論式やデータを人の文章のかけらを組み合わせて説明に使ったもの」であり、そんな価値のないものを制限するということは人間社会の発達を阻害することにもなる。


問題は、コピペが妥当かどうか、なにをコピペと言うかについて、学会はほとんど何も議論もせず、根拠のある規則(世界平和、人類の発展などとの関係でどのように制限する必要があるかなどとの関係で)が無い状態だということだ。


よく「学問は厳密でなければいけない」という大学者が「なぜ、コピペしていけないのですか?」と聞くと、「いけないものはいけないのだ!とんでもない!」と叫ぶことがある。


小保方さんが会見で言っていたように、「一つの研究室にいなかったので、しきたりを学ぶ機会がなかった」ということ、つまり、研究のやり方にしても、結果のまとめや発表にしても、「職人が親方から学ぶ」というのは現在では前近代的として退けられている。


また、「アメリカではこうだ」と言っても、日本人はすべてのことにアメリカで決まっていることを守らなければならないという声明もない。ただ、村の掟で「コピペはいけない」と決まっている。それは私も知っているが、私は「コピペしたほうが人類の知の成果を利用できるし、権利にしたければ合意に基づく権利(著作権、特許権)が良い」という考えである。


科学論文の他人の文章を使うことが「やってはいけないこと」という理由のある論理と書いてあるものはどこにあるのだろうか? 理由もなく、教会の権威を守るために、女性を魔女として縛り首にしたヨーロッパ中世を思い出す。


(平成26年4月18日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ








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