2014年8月9日土曜日

【STAP騒動の解説 260802】 剽窃論 第二章 法律と内規(著作権法と剽窃の内規)(その3)




剽窃論 第二章 法律と内規
(著作権法と剽窃の内規)(その3)


 3.自然科学の論文とその内容

科学には、人文科学、社会科学、そして自然科学があるが、ここではそれぞれの例として、歴史学、経済学、物理学を取り上げる。
 歴史学   歴史的事実を明らかにして、解釈を与える。
 経済学   経済的事実を明らかにして、解釈を与える。
 物理学   物理的事実を明らかにして、解釈を与える。

時々刻々、場所によっても違いはあるが、「事実」は基本的には1つしかない。そして解釈も基本的には「もっとも真実に近い解釈」が1つあるだけで、それに近づくために人間の能力の範囲で複数の解釈が生まれるが、最終的には1つを目指している。ただ、歴史学は事実の観測手段が複雑で、価値観と結びつきやすく、経済学は研究対象とする人間社会の変化が複雑で、今のところ、「学問が事実の変化に追いつくことはできない」という状態である。つまり、歴史学では、将来、過去に起こった歴史的事実を遠方の星からの反射波を分析して確定する(たとえば、1000光年かなたの星の反射光は2000年後に地球に到達するので、この技術ができれば2000年前の事実を確定できる)手段が生まれるまでは、事実の確定は難しいだろう。 

また経済学では社会のすべての人の行動をビッグデータで解析できるようになったら、推定が減って諸説は一つの解釈にまとまると考えられる。現在の状態はちょうど、コンピュータで天気予報をしようとしても、計算が終わるまでに翌日になってしまうという状態に似ている。このように、どの分野でもほぼ類似の活動をしているが、現実に使われている手法はかなり異なる。現実に「引用」、「盗用」ということでは大きく考え方も現実的な方法も異なるので、まずは整理や議論が拡散しないために物理学からスタートすることとしたい。

具体的な例として、1905年にアインシュタインが出した有名な3論文(相対性原理や光電効果など)、1953年にワトソンとクリックが出したDNA論文(ネイチャーに掲載)、この論文(文理融合論文で、ネットにだすもの)、さらに先日、私がテレビで使った画像を用いたい。

まず、1905年のアインシュタインの相対性原理の論文であるが、アインシュタインが提案し、まだ議論のある頃には、「アインシュタインが***としている場所と時間を含む方程式は・・・」というような学術論文がでて、その時には論文は引用されている。つまり、1)公開されてからしばらくの間、2)その結果について議論がある期間、に限って引用されていたが、相対性原理が普遍的な原理として認められたあとは、「アインシュタインの相対性原理によれば」と記載されて、論文は引用されなくなる。さらに原理として定着したあとは、「アインシュタインの」という個人名が抜けて、単に「相対性原理によれば」と記載される。

現代では、なにも記載せずに「質量とエネルギーの関係は、mc2=Eであることから」と書く。すでに論文引用も発見者も、そして原理の名称も表示しない。このことから、「他人が論文で明らかにしたもの」を引用するかどうかは、発表されて議論がある時代、議論がなくなったがまだその村(学会)に十分に知られていない時代、さらに社会的にも認知されていて名称などを示す必要がない程度になった場合、などによって異なることがわかる。

しかし、初期の状態から原論文を引用しなくてよい次の段階に入るかの規則はなく、単に「村の雰囲気」で決まる。それで問題にならなかったのは、1)アインシュタインの相対性原理論文が著作権や特許権を持っていないこと、2)アインシュタインが権利を主張していないこと、3)あまりに専門的だったので感情的な反応がなかったこと、4)そのうち定説となったこと、が原因だったと思う。いずれにしても学問がもとめる「普遍的なこと」とは遠いことだ。

ところで、物理を学んだ私の感じでは、物理学の勉強や研究でアインシュタインの論文を参照したことはなかった。すでに多くの基礎物理学の書籍に偉い先生が丁寧に解説してくれているので、それを勉強してアインシュタインの概念と式を学んだ。

その後、複数の論文で質量とエネルギーの関係の説明および式を使ったが、引用することはなかった。引用するとしても、私が勉強した教科書を引用するのか、それともアインシュタインの原著を引用するのかは判断できなかった。このようなとき、普通は教科書を引用するのだが、その逆の経験もあった。

ある時に、ダーウィンの原著の中の一節を引用したので、原著を引用欄に書いた。出版時期は1870年ぐらいと思う。そうしたら、査読の時に査読委員から「原著を引用しても、それを見ることができないから、読者が参照できるものを引用しなさい」と言われて困ったことがある。実は引用は英語で、英語で直接引用することが大切だったが、日本では日本訳しか普通には手に入らないからだ。

つまり、この場合、査読委員は私が引用した「内容」はダーウィンがオリジナルだということで引用するのではなく、読者が参考になるためにということで、「引用」のもう一つの意味を言っている。つまり、剽窃を防ぐには引用すればよいというが、引用には二つの意味があり、一つは著者への敬意、一つは読者の参考だ。そのどちらを指しているのかが不明確なのである。

さらに、DNAの構造は膨大な書籍の中に1953年にワトソンとクリックがネイチャーの論文で示した「二重らせん構造」が使用されている。書籍のほとんどは彼らの論文を引用していない。それは「DNAの二重らせん構造」は「公知の事実」と思われているので、「無断で利用してよい」と「暗黙の掟」で思っているからに過ぎない。

もちろんDNA論文は著作権もないし、特許権も申請されていないので、法的には問題がないが、論文を引用しないで「DNAはらせん構造だから」と書くのは剽窃にあたる。そうするとほとんどの書物が剽窃として「研究不正」にあたるだろう。

次にぐっとレベルが下がって、「この論文」(武田邦彦著、ネット掲載)を取り上げてみたい。この論文はそのレベルはともかく、私が書いて公開したものだ。しかし、この論文には多くの「他人の考え、文章」が示されている。だから、この論文を書いた瞬間(つまり、私の考えをパソコンに表示した瞬間)から、もし剽窃について他人が同じ「考え」をどこかに書いたら、それは剽窃に当たるから「研究者として許すことができない」と断罪しなければならない。

でも、研究不正の専門家は、「武田が自分の頭に浮かんだものなどわからないじゃないか。それにネットに掲載したからといってその全部に目を通すことはできない」というだろう。つまり政府や理研の規則にある「他人の考えを引用せずに使うことは剽窃」というのは、なにか別の意味を持つ制限を持っていることは明らかである。

もう一つ、この論文はなにも引用していない。アインシュタインもワトソン・クリックも、理研の規則集も無断で使っている。ということはこの論文は剽窃に満ち満ちているが、そのことで私がこの文章をネットに出すと、「剽窃」として罰せられるのだろうか? 私を剽窃の罪で調査するのは私の所属する大学だろうか? 著作権なら著作権者がいるから私が無断で利用すると「損害」を受けるからあるいは著作権者が訴えると思うが、この論文でアインシュタインが損害を受けるわけではない。だれも訴えても得をしない。

もし、この論文を私が所属する大学が審査する場合、その目的はなんだろうか? 誰にも損害は与えていないが、教育上の配慮で老教授の自由な論評の欠陥を調査して、教授会で議論するということをすると、かなり時間の浪費のように思われる。それは社会的に正しいことだろうか??

さらに最後に私はテレビで「未来の科学」をお話しすることがある。そこでは、顔認証による自由な預貯金の払い出しや改札のように、すでに誰かが着想しているものもあるが、一つ一つはテレビでお話をする時に、「これは誰の着想」などと引用しない。また私独自に「こんなものはできるだろう。なぜなら物理学でここまでは分かっているから」という新しい材料や機器を創造して示しているが、それが現実になった時に発明者は私のテレビ放送を引用してくれるのだろうか?

「他人の考え」というのは、映像や文章そのものではない。その映像や文章によって示された科学的概念やデータから導き出されて新しく発見された現象などである。それらは「思想又は感情に基づく創造物」ではないので著作権はないが、「剽窃」に当たる。

2014年に問題になった理研の調査は「自然科学領域における剽窃」に関するものであり、日本の多くの学者(少なくともメディアが取り上げた学者)は「他人の考えや文章を引用なしに使うのは許されない。そんなことは学者にとって当たり前のことだ」と言ったが、ここまでの検討で明らかになったように、それは「狭い仲間内で、査読付き論文に書かれているか、権威のある人が書いたもので、仲間の間の仁義から許されざるもの」ということと推定される。

しかし、「仲間」、「権威」、「仁義」のいずれも「学問」とはかなり距離が遠いので、結局、その人その人で任意に「やってはいけないこと」を決めていると考えられ、厳密で正確、感情を排する自然科学では、あいまいな制限をする方が「許されないもの」と考えられる。

(平成26年8月2日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




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