2014年8月6日水曜日

【STAP騒動の解説 260806】 剽窃論 第二章 法律と内規(著作権法と剽窃の内規) (その1の2)



【STAP騒動の解説 260806】
剽窃論 第二章 法律と内規
(著作権法と剽窃の内規) (その1の2)



2-2  著作権の例外とその意味


著作権の使用については若干の例外があり、上記の「政府などの公的機関の著作物」や、下記の「学校における使用」、「非営利での利用」がある。


(教育上の利用など(条文の一部の例外規定は法律を参照のこと)
「第三十五条  学校その他の教育機関において教育を担任する者及び授業を受ける者は、その授業の過程における使用に供することを目的とする場合には、公表された著作物を複製することができる。(後略)」


「第三十八条  公表された著作物は、営利を目的とせず、かつ、聴衆又は観衆から料金を受けない場合には、公に上演し、演奏し、上映し、又は口述することができる。(後略)」


「同条4  公表された著作物は営利を目的とせず、かつ、その複製物の貸与を受ける者から料金を受けない場合には、その複製物の貸与により公衆に提供することができる。」


この三つの条文は当たり前のように思われるが、著作権というものを理解するうえで重要である。つまり、著作権は個人の権利のほうが「人間本来の権利」として与えられているのではなく、もともとは「知的財産」として人類共通のものなので、教育や非営利などの場合、その権利をもとめることはできないという意味がある。


第三十八条は「上演、演奏、上映、口述」などが対象ではあるが、同条4も加えると、「営利を目的としない場合、たとえ著作物であっても自由な利用が許される」とできる。厳密な法解釈ではなく、法の趣旨という意味では、著作権は認めるけれど、非営利の場合には、著作権を主張できないので、法律に基づいて教育研究上の内規などを決めるときには、著作権法そのものよりやや緩やかにするのが妥当であることがわかる。


たとえば論文は、提出するときに著者の方から経費を払い、副生物も著者は販売しないから、著者が著作権を持つわけではない。商業的な雑誌に論文を掲載する場合は、著作権を著者から出版社などに移転することがあるが、もともと著作権のない論文の場合、商業的に取り扱うから著作権を生じるかという問題がある。


またたとえば博士論文のようなものは教育が主眼であり、もちろん非営利の研究目的であり、さらには有償で配布することはほとんどない。したがって、たとえその論文が「思想又は感情に基づいた創作物」であっても、教育研究関係で使用する限りは、少なくともその内部において自由に使用できると解釈するべきだろう。


また、早稲田大学の委員会が博士論文の中での剽窃を、著作権法に準じて「許されない」としているのは、博士論文が営利に属すると解釈しているのか、もしくは学者や弁護士にありがちではあるが、「人類の共通財産」より、個人の権利の制限が主眼となり、「自主規制のやりすぎ」や「過度の潔癖症」が判断の理由になっている可能性もあり、その論拠を明らかにしていかなければならないだろう。


この剽窃論で示すように、他人の書いたものをどのように利用するかという問題は、知の所有権、個人の名誉、閉鎖的だったころの特権階級としての学会の伝統、論文の厳密性を保つうえで必要な掟などが混在していると考えられる。


最後に、著作権は人間本来の権利ではないので「期限付き」であることを示す。
 「第五十一条 の2  著作権は、著作者の死後五十年を経過するまでの間、存続する。」


となっている。もともと25年だった保護期間が50年に伸びたのは、アメリカの商業団体の要請であり、日本でも「著作権は長く保護されなければならない」という考え方が正しいのかどうか、さらに論じる必要がある。


「正しいとは何か」という私の問いからいえば、論文を書くにあたって守るべきこと、社会が論文の著者に求めることは著作権法の範囲にとどめたほうがトラブルが少ないと私は考えている。


もし著作権法で保護されること以外の要求をするのであれば(つまり、著作権がないものも使っていけないとか引用しなければならないというような内規=現在の理研や多くの大学の内規=を決める場合は、「人類共通の財産」を少なくし「個人の権利」を多くするのが適切かという理論的な研究が必要で、それには「研究費をどこから出すか」の問題も含まれている。

(平成26年8月6日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





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