2014年8月27日水曜日

【STAP騒動の解説 260822】 芥川龍之介談・・・「娯楽」で人を死に追いやる人たち



【STAP騒動の解説 260822】 
芥川龍之介談・・・「娯楽」で人を死に追いやる人たち



芥川龍之介が「輿論は常に私刑であり、私刑は又常に娯楽である。たといピストルを用うる代りに新聞の記事を用いたとしても」とあるが、さすが芥川龍之介で、遠く明治の時代に今日のバッシング文化を鋭く批判している。
この警句が載っているブログの記事に「リンチ(私刑)は許されるか」というのがあった。それによると、(1)この世には「悪いこと」があり、(2)それは罰するべきである、という考えが、現代日本の社会に蔓延していて、ネットという新しい手段で、それが正当化される可能性があるとしている。

恐ろしいことだ。

まず第一に「この世に悪いこと」があるという。そうであれば誰かが「これは悪いことだ」というのを決めなければならない。それは「神様」か「偉人」ということになっている。普通の人が「これは悪いことだ」と決めることはできない。たとえば、浄瑠璃の世界では主君のために我が子を殺すことが正当化される。殺人ですら、常に「正義」の名のもとで行われるのだから、「普通のこと」の「善悪」というのは誰も自分で判断することはできない。

そこで人間は長い歴史の中で「合意」をしていることがある。第一には宗教団体のように任意に参加できる団体内では、その団体内だけで「善悪」を決めることができること、第二に一般社会ではその社会を構成する人(国民)が相互に約束して「これは悪いこと」と決めて法律を作り、税金を出してその法律を政府や警察に守らせるというシステム、である。

また「倫理」と「道徳」は区別されないこともあるが、厳密に言えば、「倫理」の倫は相手という意味だから、相手の理(ことわり)に従うことを意味している。これをいれると、「正しいこと」というのは、宗教団体では神様が決め、社会では法律(約束)が決め、個人的には相手(倫)が決める、ということになる。

ネットでは「自分で正しいことを決めることができる」ということになると、それはこれまでの人間の歴史ではありえないことで、もしネットで「自分が正しいと思うことに基づいて、「悪いこと」を罰する」ということになると、まさに「リンチ」であり、それは「反社会的なこと」で、それ自体が「悪いこと」になる。つまり「悪いことを罰する」という行為自体が「悪いこと」なのだ。

また、私たちの約束事(法律)では、単に「何が悪いか」を決めているだけではなく、「悪いことをした人の自由を奪ったり、罰したりする手続き」も決まっている。これが民事訴訟法、刑事訴訟法で、とても大切な法律だ。

つまり、「なにが悪いか」を決めただけでは不十分で、「悪いことを決める手続き」も同じように大切である。仮にネットの人で神様のような人がいて「悪いこと」を決めることができても、その人が「悪い」と決めれば、即、死刑ということではなく、たとえば「ネットで批判する場合は名前を名乗らなければならない」とか、「批判に対して、同程度の反論の場を与えなければならない」などの細かい手続きが必要だ。

このような手続きが重要なのは、「原理原則」と「それを現実にする方法」が大切だからだ。その意味では、ネットのバッシングは (1)ネットの人が神様になることと、(2)手続きを無視して直ちに「首を跳ねろ!」というような暴君になること、を意味している。

STAP事件のマスコミ・リンチで言えば、NHK、毎日新聞、分子生物学会などが「神様」と「暴君」の役割を同時に果たし、その結果、リンチが成立した例でもある。

(平成26年8月22日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





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