2015年2月11日水曜日

理研によるSTAP細胞問題に関する緊急会見 (2015年2月10日) (場所:文部科学省)


10日午後3時より、文部科学省において、理研によるSTAP細胞問題に関する緊急会見。THE PAGEでは、会見を生中継。

2015年2月9日月曜日

STAP事件はどのように報道すべきだったか?


 2014年2月にSTAP論文の不備が指摘されたとき、私は論文を読んで「このぐらいしっかりした論文をかける若い人がいるのだな。一部の不具合はあるかも知れないが、本人の年齢や経験を考えるとそれほど問題はない」と感じた。特に4本のビデオがついていたので、それも評価した。

ところが、その後、この論文は「監督者だった若山さんが一緒に書いても掲載されるところまで行かず、笹井さんが書いた」ということが分かり、「なるほど、それならこのぐらいの論文はできるな」と(論文のできが意外によかったという点は)納得した。

ここで「科学」と「社会」の違いに触れておく必要がある。ただ、現在のように「お金に関係ある基礎研究」などが定常化した場合については別途、整理するとして、まずは「従来の科学の考え方」を示しておきたい。

科学は「ゼロかプラスか」だけを想定し、一般社会のようにダマシなどは考えない。それは「性善説」ではなく、自然が相手だからウソをつくと結果的に成果にはならないので、それは「ゼロ評価」で十分だからだ。普通の科学の論文は「儲からない」から、ゼロ評価になれば研究も論文を書く手間も、10万円ぐらいする掲載料もすべて無駄になるからだ。そのぐらいのペナルティーがあれば嘘を書かないという前提があった。

ところで、小保方さんが若山さんや笹井さんに研究を説明した2012年の12月時点で、彼女がやったことは4つの可能性がある。

1)研究は不完全で、すぐには進歩に役立たないが、見所がある

2)なにかを錯覚して新しい結果を得たとおもった

3)論文が通らないので若干の細工をした

4)最初から意図的にウソをついて

1)はそのうち、明らかになるだろう。また、2)は若い人にはよくあることだが、「良い」わけではないが、監督者が注意するのが普通だ。

3)や4)のケースもあるけれど、それを綿密に調べる手間が大変で、毎日でる膨大な論文をチェックするシステムはないし、現在のところ方法もない(新しいことがウソか本当かは原理的にわからないということもある)ので、普通は「ほんとうかな」ぐらいで研究者仲間でほっておく。

有名な事件に日本では「神の手」という化石のインチキ事件があったし、イギリスではビルトダウン人の頭蓋骨捏造事件があった。どちらかというと「一人の研究や発見」で組織の中ではない。このような場合、良い悪いは別にして、科学の歴史はそれを飲み込んで進歩するというダイナミズムを持ってきた。不正は自浄作用でなくなってしまうということだ。不適切だったかもしれないが、それが事実だった。

ただ、「監督者、組織」がいれば組織の中で成果を評価するのが普通だ。典型的なのが大学教授と学生で、学生の間違いは教授がチェックしなければならないし、その力もある人が教授となる。

私の経験を一つお話したい。

私は名古屋大学で博士過程の学生が従来の知見と全く違う研究結果を得た。学生の段階では再現性もあったが、私は従来の知見とは違うので、これをどうしようかと思い、ちょうど機会があって中部大学の学生に実験させるチャンスがあり、やってみた。

そうすると、名古屋大学の結果を知らない中部大学生が原料から装置、すべて違うのに同じ結果がでた。そこで「おそらく結果は正しいと思うので、論文を出そうと考えています」と同僚に話して博士の学生に論文を出すようにいい、私も名前を連ねた。

つまり、研究を監督する立場にある人は社会的な責任があるから、「自分の名前で論文を出す」というのは、一緒に研究していた人がダマしたとか間違ったということでその研究を自分の名前で出すということはしない。

なぜダマされないかというと、学問は「みんなが言っているから」とか「その人を信用したから」というような「人」が入りこまない世界である。「自然と自分」だけしかいないから、自分が自然との関係で納得していなければ外部には言わない。

つまり一般の人は小保方さんに質問したりして、「小保方さんは信用できるか?」と必死に自問自答しているように見えるが、私は小保方さんがどういう「人物か」とか、「本当のことを言っているかか」など属人的なことは考えない。科学的事実だけを問題にするし、それが自分で判断できるのは「共同研究者で監督者」しかいないからだ。

今回は、小保方さんは無給研究員で博士課程卒業直後であり、監督者として「若山、笹井、理研の専門集団、理研」と4重構造をとっている。そして、若山さんも笹井さんも大学教授になるような人だから、科学の初歩としてのこのぐらいの訓練と習慣、そして判断力を持っている。

つまり、共著者として入るなら、「小保方が言ったから信じた」というのでは学問の世界に大きな損害を与える。小保方さんに責任があるかどうかより先に、若山さん、笹井さんは「サギで共著者になったのか」を問う必要がある。もし、若山さん、笹井さんや理研の関係者が、自然を確認せず、人を信じたというなら、そのように発言しなければならない。

しかし、若山さんは逃げているが、笹井さんは記者会見で「ビデオは捏造できない。ES細胞とSTAP細胞とは全く見かけが違うから間違うことはない」と言っているので、自分が自然と対峙して納得して共著者になったと言っている。笹井さんは「小保方さんを信用した」とは言っていない。

つまり科学の世界には「人にダマされる」ということは「原理的にない」のであり、「人を信じる」というプロセスや概念自体がないのだ。つまり若山さん、笹井さんが共著の論文というのは、両人が「自然との関係で研究結果に自信がある」ということを示しており、そこには「小保方」という字は存在しない。

それでは論文や研究結果に問題があり、それをなんらかの事情で社会的な糾弾が必要なとき、「誰、何」を糾弾すべきだろうか? 

まず第一に、科学として興味があり、問題にすべきことは、「誰」ということではなく、そこに書かれた科学的事実が問題になるべきである。それは写真が誰のものとか、文章がどこからか写してきたという「論文の出来・不出来」に関するものではない。

しかし、今回の場合、NHKや毎日新聞は「科学」ではなく「人の犯罪」を問題にした。そうなると、「責任者は誰か」ということになり、第一に若山さん、第二に笹井さん、第三に小保方さん、そして監督責任が理研ということになるだろう。

小保方さんが書いた論文は一報も通っていない。だから日の目を見ていない。だから「研究者としての責任」は小保方さんもある可能性があるが、STAP事件が社会的な問題なら「理研が組織ぐるみ犯罪」だろう。

(この記事は、「武田が小保方さんを擁護するのは不当だ」というお考えの読者の方に原稿を見てもらい、不適切な表現を変えました。私は小保方さんが誤魔化しているかどうかは実験もしていないし、本人にお聞きしていないこと、私より笹井さんの方が判断力があると考えられることから、小保方さんの研究の評価はしてきませんでした。でも、普通の人から見ると私の文章は「小保方擁護」に見えるらしいので、可能な限り修正をしました。繰り返しますが、私は小保方さんを擁護も批判もしていません。する必要があるかどうかより、監督者と理研の問題として捉えるのが良いと思ってきました。)

(平成27年1月29日)

(出典:武田邦彦(中部大学)ブログ



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