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2014年4月26日土曜日

【STAP騒動の解説 260426】 知の鍛錬(4) 平和への道の1 クーベルタン男爵




知の鍛錬(4)
 平和への道の1 クーベルタン男爵



「あなたは平和を愛しますか?」と聞けば日本人の100人が100人、「もちろんです」と答えるだろう。マスコミならさらにそれを強調するに相違ない。


平和運動というのがある。そこに行くと「平和の大切さ」、「命の尊さ」が叫ばれる。でも、ウクライナにロシアが侵攻しても、尖閣諸島の防衛にアメリカ軍が参加しても、声を上げない。


平和運動は批判しにくいし、批判に対してあまりにも激しい攻撃がくるので、あまりやる気もないが、私は平和の大切さとか命の尊さというのはあまりに簡単すぎて、それを言っていても平和は訪れないと長く思ってきた。つまり「平和」というのは非常に難しく、平和の尊さを強調するやさしさとあまりにもレベルが違うから、解決策にはならないからだ。


つまり、航空機の安全運航という問題を、小学生が解けないということと同じで、難しい問題を解決するためには、その難しさを超えるレベルが必要だからだ。「そういっても平和の大切さを強調するのは必要だ」と言われるが、私がそれに反論すれば「戦後、70年、それだけじゃないか。国連で否決されているのに、イラクにアメリカ軍が侵攻しても、なんでアメリカを支持するのか? 中国はチベット、ウィグル、満州はもともとの領土ではないのに、なぜ中国を支持しているのか?」と言いたくなる。


そして、STAP事件でも、「平和のために学問の成果は公知にする」となっているのに、「公知」を非難して「盗用」というのだから、これも「戦争をしたい」ということにほかならない。


その一つに「オリンピックのメダル争い」がある。オリンピックは「平和の祭典」であるがゆえに「国」をできるだけ後退させなければならない。団体戦など仕方がないものもあるが、個人がどの国に所属するかは事務的な手続きに必要なもの以外は使ってはいけない。


もちろんIOC(国際オリンピック委員会)は、「国別メダル数」をまったく発表していない。それを計算して毎日の紙面にだし、戦争をあおっているのがマスコミである。


スポーツは人間の神聖な活動だから、国を超えたものだ。アメリカの大リーグで田中選手が活躍して拍手をうけ、日本の国技である相撲で外国人が3人、横綱を独占しても良い。それがスポーツである。


スポーツに国の対立を持ってくると、サッカーで韓国がやったように政治的横断幕を使ったり、負けていたら審判がペナルティーキックで救うという奇妙なことが起きる。


「国の税金を使っているのだから、選手はメダルを取れ」と言うのなら、「オリンピックのような平和の祭典に行くな」と言ったほうがまだ筋が通っている。日本が国連に分担金を出したり、ユネスコに協力しているように、スポーツを通じて世界平和に向うのがオリンピックなのだ。


今から100年ほど前にすでにクーベルタン男爵が声をからして国別対抗を止めるように説得し、イギリス国教会の牧師様(呼び名は違うが)がオリンピックで対抗心を燃やしたイギリスとアメリカの選手さんをいさめたように、すでに世界の合意を得ているのだ。


平和への道の第一歩、それは「国別メダル数をマスコミが計算せず、報道しないこと」である。それすら今の日本はできない。韓国や中国が「対立を激化させ、戦争に向かおう」としているのと私にはほぼ同じと思う。


平和への道を一歩、一歩、勇気をもって進むことが、私たちが子供にできるとても大きなことだ。


(平成26年4月26日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年4月25日金曜日

【STAP騒動の解説 260425】 知の鍛錬(3) 学問とコピペの3:科学には盗用はない




知の鍛錬(3) 学問とコピペの3:
科学には盗用はない



STAP事件が起こってから、経験の浅い「学者」と自称する人が「論文はそれを見たらだれでも再現できるようになっていなければならない」とか、「仮説が論文にならないのは常識」などと間違ったことを連発している。


そして日本中が騙されたのが「科学論文でコピペは許されない」というのがあった。なにしろ文章がダメな学生が先生から「コピペはいけない」と言われるものだから、それが自分がいたらないから教育を受けていることを棚に上げて、「大人もコピペはいけない」と言いだしたからややこしくなった。


先回と先々回、アインシュタインの業績を例にとって、大切なのは「概念=相対性原理」と「式(データ)」であって、説明の文章は極端に言えば頭脳明晰な人にとっては「カス」であることを明らかにした。


次に、もともと価値のある論文と言うのはどういうものか、20世紀の最大の科学的発見(着想)と言われているワトソンとクリックの論文を示したい。これはノーベル賞を受賞した論文だから、まさか20世紀の科学の最高峰と言われる論文を「ダメな論文だ」と言う豪の人はいないだろう。


ネイチャーに投稿されたこの論文は実質1ページで(2ページめは数行なのでここでは示していない)、実験結果も理論式もなにもない。わずかな文章とDNAの構造(仮説)が示されているだけだ。


しかも、この論文のもとになったのは、「ワトソンとクリックのデータ」は一つもなく、現代の理研とマスコミが言うなら「盗用したデータ」だった。このことは後に問題になるが、「科学のデータは公園のベンチと同じように人類共通の財産である」=公知 であることで、結局、ワトソンとクリックがノーベル賞を受賞した。


科学で大切なのは、一に「概念」、二に「理論式やデータ」、そして三にほとんど意味はないけれど「文章」だ。概念が画期的なら、理論式やデータはいらないし、DNAのようにデータが「盗用」でもOKである。


科学には所有権がないから、もともと「盗む」という行為がない。それを知らない専門家が間違ったことを言っただけだが、もし仮に科学的事実に所有権があって、人のデータを使うことが「盗用」としても、科学は人間の所有権を超えるものだから、「盗用でも新しい概念の価値は変わらない」のである。


もう少し具体的に考えてみたい。データを取った人は近くの研究室の女性研究員だったが、その人はDNAのX線のデータを取ったが、それから「DNAは二重らせん構造であり、生命は化学物質である」という極めて重要な結論を導き出すことができなかった。


もし彼女のデータに所有権があり、他の人が使えなければ(もし、彼女に断ったとしても、彼女がデータの使用を断ることがある)、人類はDNAの構造を明らかにすることができず、自然を解明することが不可能になる。


科学がすべての結果を「人類共通の財産」としているのは、一つは争いをもたらさないためだが、もう一つは「科学的財産を公知にしておかないと人類の叡智を発揮することができない」からである。


「他人のデータを使ってはいけない」、「引用しなければならない」、「文章をコピペしてはいけない」などは「人間の発展をどう考えるか」について良く考察していないからと思う。


そして、自然科学者は「人間の所有権、個人の名誉」などは「自然を明らかにすること」に比べてとても小さいという感覚を持っている。自然が嫌いで、名誉やお金が欲しい人が自然科学をするから、ややこしい。


(平成26年4月25日)
武田邦彦


(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年4月18日金曜日

【STAP騒動の解説 260418】 知の鍛錬(2) 学問とコピペの2:文章は「カス」か「知」か?





知の鍛錬(2) 学問とコピペの2:
文章は「カス」か「知」か?



さて、アインシュタインが私たちに示した知は、1)概念、2)理論式(実験の場合もある)、3)説明、である。学問や人類にとって最も大切なのは「相対性原理と言う概念」であり、さらに「具体的な計算ができる式」である。たとえばエネルギーは次式で示すことができるが、これがあるから太陽光発電のもとになる太陽のエネルギーや熱も計算ができる。


しかし、アインシュタインの「説明」は何らかの意味があるのだろうか? もし、私たちの学力がアインシュタインをはるかに超えていれば、アインシュタインは前回のこのブログに示した式を5,6ケ示して、だから相対的なのだと書けばよいだろう。


でも、私たちは頭が悪い。だから、アインシュタインは「この論文を読む程度の人なら、このぐらいから説明しておく必要があるだろう」と推定して、(本当は不必要だが)解説する。それが論文の「文章」のところだ。


ここは「知の実体」が理論式や観測データ、計算値にある自然科学と、文章に意味のある法律や文学などとの違いと思われる。だから、相対性原理の論文の説明は、アインシュタインが書いても、アインシュタインの知人が彼から話を聞いて書いても、同じ文章になる。だから、文章は「必須のもの」ではないことがわかる。


つまり、科学論文の文章は知的内容の無い単なる説明だから、知としては「カス」の部分である。


また、「知的なもの」で「自分の頭に入り込んだもの」は自分がどういう形でそれを利用しているのか、明示的にわかるものではない。つまり、私が今、「私」と書いたとすると、「私」という字を発明した人、「わたし」と読むと決めた人、自我についての哲学の認識などが前提であって、それも「借用している」ことには相違ない。


つまり、「物品」なら、人の自動車を運転して初めて「人のものを使う」ことになるが、「知恵」は頭脳の中に溶け込んでいるので、区分けすることが難しいという現実問題があり、文章は「理論式やデータを人の文章のかけらを組み合わせて説明に使ったもの」であり、そんな価値のないものを制限するということは人間社会の発達を阻害することにもなる。


問題は、コピペが妥当かどうか、なにをコピペと言うかについて、学会はほとんど何も議論もせず、根拠のある規則(世界平和、人類の発展などとの関係でどのように制限する必要があるかなどとの関係で)が無い状態だということだ。


よく「学問は厳密でなければいけない」という大学者が「なぜ、コピペしていけないのですか?」と聞くと、「いけないものはいけないのだ!とんでもない!」と叫ぶことがある。


小保方さんが会見で言っていたように、「一つの研究室にいなかったので、しきたりを学ぶ機会がなかった」ということ、つまり、研究のやり方にしても、結果のまとめや発表にしても、「職人が親方から学ぶ」というのは現在では前近代的として退けられている。


また、「アメリカではこうだ」と言っても、日本人はすべてのことにアメリカで決まっていることを守らなければならないという声明もない。ただ、村の掟で「コピペはいけない」と決まっている。それは私も知っているが、私は「コピペしたほうが人類の知の成果を利用できるし、権利にしたければ合意に基づく権利(著作権、特許権)が良い」という考えである。


科学論文の他人の文章を使うことが「やってはいけないこと」という理由のある論理と書いてあるものはどこにあるのだろうか? 理由もなく、教会の権威を守るために、女性を魔女として縛り首にしたヨーロッパ中世を思い出す。


(平成26年4月18日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ







2014年4月17日木曜日

【STAP騒動の解説 260417】 知の鍛錬(1) 学問とコピペの1:アインシュタイン



知の鍛錬(1) 学問とコピペの1:
アインシュタイン



普段の生活では私たちはややアバウトで、アバウトでなければ毎日を過ごしていく事ができません。でも、学問とか科学の世界はアバウトではダメで、しっかりした論理で進まなければならない。


でも、最近、日常生活もアバウトになると、専門家やマスコミに騙されることが多くなってきた。なにしろ、事実を知らないことを良いことに「ここまではだましてもわからない」という専門家が増え、それは耳触りが良いのでマスコミが使うという悪循環が続いている。


そこで、ここではSTAP事件で問題になったコピペのことを「厳密な論理」で考えてみたいと思う。
・・・・・・・・・


「知の果実」とはどういうものだろうか? 「物」なら「見ればわかる」から簡単で、たとえば、この自動車は誰のものですか?というようなことで、混乱しない。ところが「知の産物」は違う。


知の産物、たとえば論文が示していることは3つある。
1) 新しい知の領域(たとえばアインシュタインの「相対性原理」)
2) 新しい知の領域に達した証拠(アインシュタインが示した理論式、実験データ)
3) 知の領域と証拠の説明(論文や本の文章)


このうち、人類に新しい知恵を与えてくれた概念(相対性原理)は、論文に書かれていることもあれば、書いてないこともある。というのは、一般的に研究者は謙虚であることと、将来のことはわからないという思いが強いので、2)で式の展開を行い、「このような結論を得た。これは・・・である可能性がある」程度に留める。


次に、アインシュタインの相対性原理を導くために考えた式、つまり「人類の知恵」の2)を順序良く示したい。ここに示す一つ一つの式は慣れていないとわからないので、「誰の式か」、「流れはどういうものか」だけに注目していただいて欲しい。


まず、この式が基礎になるが、これは「マックスウェル」という人が19世紀に提案したもので、電磁気学の基礎的な式である。アインシュタインはこの式を使うときにマックスウェルに断っていない。また私も使うけれど、「本人は亡くなっているし、引用もしない」で使う。それはこの式が「公知」だからだ。


次にローレンツ変換というのを使う。これも物理学では有名な手法で、比較的最近(100年ほど前)のものだが、誰も本人に断らずローレンツの論文を引用せずに式を使っている。「公知」だからだ。


もちろん、ニュートンは出てくる。次の式はニュートンの運動方程式で、膨大な物理の論文に使われるが、私はこの式を使うときにニュートンの論文(原著)を引用している例を見たことはない。無断引用するのは「公知」だからだ。


そして、ニュートン、マックスウェル、ローレンツなどの先人の式をコピペ(利用)して、アインシュタインは運動を明らかにし、そして有名な「質量とエネルギーの関係」、つまり「ニュートンの運動方程式の修正版(厳密にいうとニュートンは間違っていたという証明)」をだす。この時にも彼はフーリエ展開をするけれど、フーリエ(相対性原理の80年前に他界している)には断っていない(公知)。


このように科学研究は「先人の知恵」を利用してわずか一歩だけ自分が進むことができる。だから、もし科学的知見が「公知」でなく、「物品」のように所有者がいたら、科学の研究は不可能になる。これが「公知」の存在意義であり、とても重要なことだ。


ここでアインシュタインの例を出したのは、アインシュタインですら、その業績のほとんどは「先人の業績」であり、それが「使える状態(公知)」になっていないと、何もできなかったことが分かる。つまり「公知」があって初めて科学は成果をあげられるのだ。


ここにコピペを持ち出したのは、私は科学の進歩に大切なことだと思っていたが、日本の学者の多くが反対の意見なので、自分としても考え直すことが必要かを知の鍛錬を通じて考えてみようと思ったからだ。


(平成26年4月17日)

(注)掲載してから音声を聴いたら、「テイラー展開」のことを「フーリエ展開」と言い間違っています。また、この記事にはウィキペディアの一部をコピペしていますが、著作権法で定められた「思想又は感情に基づく創作物」ではないと考え、使用しました。

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ







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