2014年4月29日火曜日

【STAP騒動の解説 260429】 ダーウィンの番犬・・・バッシングの均等発信論




ダーウィンの番犬・・・バッシングの均等発信論



STAP事件は、「科学技術立国」と言いながらあまり科学とは縁が遠かった日本社会が初めて「科学」というものを真剣に考えたきっかけにもなった。そこでは、京都大学の先生が「仮説は論文にならない」などと荒唐無稽のことを言われたり、多くの先生が「著作権」をご存じなかったり、日本の学術界の曖昧さを露呈した面もあった。


ところで、この事件は「社会の中の一個人」というものがいかに脆弱であるかも示した。あることでネットの一部の人が騒ぐと、それがたちまちのうちに日本中に広がり、その真偽やソースをあまり確かめることなく、マスメディアは「社会の中の一個人」を葬りさり、所属する団体は冷たく切り離すことがはっきりしたからだ。


そこで、この事件を前向きに転換するために、少しでも日本社会が前進することに役立てようと思う。


私は政府、NHK、東大など強力な組織は批判することがあるが、個人はほとんど批判の対象にしない。これまで個人を批判したのは東大総長、国連大学副学長などだ。それは「自分より発信力の低い人を批判すると、その人が私の批判で打撃を受けることがある」からだ。


言論の自由があっても、それが「凶器」になってはいけない。そのためには、批判する相手が、十分に強力で、体力もあり、地位が揺らがないという前提があると思う。その人がいよいよ社会的に危険になれば警察がでるのだから、「批判」というのは、それよりずっと内輪でなければいけないからだ。


今回のSTAP事件ではネットをはじめ、マスコミが繰り返し、繰り返しかなりの時間をかけて小保方さんという一個人の批判を行った。特に昼のワイドショーのような番組では、怪しげな科学論から研究者としての批判まで、醜悪だった。


でも、今回のことを教訓にして、私は次のことをマスコミとネットに提案したいと思う。
● 一個人を批判する場合は、ネット及びマスコミにおける「総批判時間数」の制限を設ける。
● 一個人を批判するネット及びマスコミは、その個人が反論を希望した場合、批判した時間やページ数と同じ時間やページ数を提供する義務を負う。


なんで言い始めたかと言うと、STAP事件が起きてから、小保方さんを攻撃する人はネットやテレビ新聞の関係者が1000人もいただろうし、それを見た視聴者やネット参加者は膨大な数に上る。その人たちの多くは「こんなにひどいことをしている。小保方でてこい。釈明しろ!」と言う。


別に小保方さんはネイチャーに論文を投稿しただけで、誰にも迷惑をかけていないのだから、「出てこい!」と命令する方がおかしいのだけれど、社会がヒステリー状態になると「そんなことを言ったら失礼ではないか」という日本人の謙虚さなどどこかに行ってしまった。


批判している人はテレビや、新聞、ネットなどさまざまで、その数も多いから、それを小保方さんが反論に回っていたら疲れ果てる。また彼女には彼女の仕事があるから、彼女の人生が最優先で、彼女が「気が向いたら来てください」ぐらいだろう。


「俺が興味があるのだから、彼女の都合など考えなくても良い」ということは私には成立しないように思える。現在はディジタル時代なので時間は簡単に割り当てられるので、「批判時間登録所」をネット上に作り、そこで「一個人の批判時間」の管理を自動的に行うことが可能だと思う。ネットもバッシングばかりではなく、社会がスムースに進むような仕組みもいるだろう。


そして、テレビや新聞などは、放送法で定められている通り、どんなことでも「賛否両論」をバランスよく取り上げること、もし一個人を批判することが多くなれば、その本人、もしくは本人を代弁する人にかならず同程度のスペースを出す必要があると思う。


ダーウィンが進化論を出した時、それまで「人間は神から作られた」と思っていた人からの総攻撃で研究ができなくなったことがあった。その時、必ずしもダーウィンの進化論に全面的に同意していたわけでもないハクスリーが世間のダーウィン・バッシングに対抗して頑張り、戦いを好まなかったダーウィンが社会の批判にさらされるのを防いだ。


後の「ダーウィンの番犬」と呼ばれるハクスリーがダーウィンという静かな研究者を守ったことが、それからのダーウィンにとってとても大切になる。


ダーウィンの進化論から155年を経るが、まだ人間社会は「新しいことをする人をバッシングする」ということから抜け出せていない。でもすでにディジタル社会だから、「STAP番犬」の登場を待つより、もう少しましな方法を取れないかと思う。


(平成26年4月29日)
武田邦彦








2014年4月26日土曜日

【STAP騒動の解説 260426】 知の鍛錬(4) 平和への道の1 クーベルタン男爵




知の鍛錬(4)
 平和への道の1 クーベルタン男爵



「あなたは平和を愛しますか?」と聞けば日本人の100人が100人、「もちろんです」と答えるだろう。マスコミならさらにそれを強調するに相違ない。


平和運動というのがある。そこに行くと「平和の大切さ」、「命の尊さ」が叫ばれる。でも、ウクライナにロシアが侵攻しても、尖閣諸島の防衛にアメリカ軍が参加しても、声を上げない。


平和運動は批判しにくいし、批判に対してあまりにも激しい攻撃がくるので、あまりやる気もないが、私は平和の大切さとか命の尊さというのはあまりに簡単すぎて、それを言っていても平和は訪れないと長く思ってきた。つまり「平和」というのは非常に難しく、平和の尊さを強調するやさしさとあまりにもレベルが違うから、解決策にはならないからだ。


つまり、航空機の安全運航という問題を、小学生が解けないということと同じで、難しい問題を解決するためには、その難しさを超えるレベルが必要だからだ。「そういっても平和の大切さを強調するのは必要だ」と言われるが、私がそれに反論すれば「戦後、70年、それだけじゃないか。国連で否決されているのに、イラクにアメリカ軍が侵攻しても、なんでアメリカを支持するのか? 中国はチベット、ウィグル、満州はもともとの領土ではないのに、なぜ中国を支持しているのか?」と言いたくなる。


そして、STAP事件でも、「平和のために学問の成果は公知にする」となっているのに、「公知」を非難して「盗用」というのだから、これも「戦争をしたい」ということにほかならない。


その一つに「オリンピックのメダル争い」がある。オリンピックは「平和の祭典」であるがゆえに「国」をできるだけ後退させなければならない。団体戦など仕方がないものもあるが、個人がどの国に所属するかは事務的な手続きに必要なもの以外は使ってはいけない。


もちろんIOC(国際オリンピック委員会)は、「国別メダル数」をまったく発表していない。それを計算して毎日の紙面にだし、戦争をあおっているのがマスコミである。


スポーツは人間の神聖な活動だから、国を超えたものだ。アメリカの大リーグで田中選手が活躍して拍手をうけ、日本の国技である相撲で外国人が3人、横綱を独占しても良い。それがスポーツである。


スポーツに国の対立を持ってくると、サッカーで韓国がやったように政治的横断幕を使ったり、負けていたら審判がペナルティーキックで救うという奇妙なことが起きる。


「国の税金を使っているのだから、選手はメダルを取れ」と言うのなら、「オリンピックのような平和の祭典に行くな」と言ったほうがまだ筋が通っている。日本が国連に分担金を出したり、ユネスコに協力しているように、スポーツを通じて世界平和に向うのがオリンピックなのだ。


今から100年ほど前にすでにクーベルタン男爵が声をからして国別対抗を止めるように説得し、イギリス国教会の牧師様(呼び名は違うが)がオリンピックで対抗心を燃やしたイギリスとアメリカの選手さんをいさめたように、すでに世界の合意を得ているのだ。


平和への道の第一歩、それは「国別メダル数をマスコミが計算せず、報道しないこと」である。それすら今の日本はできない。韓国や中国が「対立を激化させ、戦争に向かおう」としているのと私にはほぼ同じと思う。


平和への道を一歩、一歩、勇気をもって進むことが、私たちが子供にできるとても大きなことだ。


(平成26年4月26日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年4月25日金曜日

【STAP騒動の解説 260425】 知の鍛錬(3) 学問とコピペの3:科学には盗用はない




知の鍛錬(3) 学問とコピペの3:
科学には盗用はない



STAP事件が起こってから、経験の浅い「学者」と自称する人が「論文はそれを見たらだれでも再現できるようになっていなければならない」とか、「仮説が論文にならないのは常識」などと間違ったことを連発している。


そして日本中が騙されたのが「科学論文でコピペは許されない」というのがあった。なにしろ文章がダメな学生が先生から「コピペはいけない」と言われるものだから、それが自分がいたらないから教育を受けていることを棚に上げて、「大人もコピペはいけない」と言いだしたからややこしくなった。


先回と先々回、アインシュタインの業績を例にとって、大切なのは「概念=相対性原理」と「式(データ)」であって、説明の文章は極端に言えば頭脳明晰な人にとっては「カス」であることを明らかにした。


次に、もともと価値のある論文と言うのはどういうものか、20世紀の最大の科学的発見(着想)と言われているワトソンとクリックの論文を示したい。これはノーベル賞を受賞した論文だから、まさか20世紀の科学の最高峰と言われる論文を「ダメな論文だ」と言う豪の人はいないだろう。


ネイチャーに投稿されたこの論文は実質1ページで(2ページめは数行なのでここでは示していない)、実験結果も理論式もなにもない。わずかな文章とDNAの構造(仮説)が示されているだけだ。


しかも、この論文のもとになったのは、「ワトソンとクリックのデータ」は一つもなく、現代の理研とマスコミが言うなら「盗用したデータ」だった。このことは後に問題になるが、「科学のデータは公園のベンチと同じように人類共通の財産である」=公知 であることで、結局、ワトソンとクリックがノーベル賞を受賞した。


科学で大切なのは、一に「概念」、二に「理論式やデータ」、そして三にほとんど意味はないけれど「文章」だ。概念が画期的なら、理論式やデータはいらないし、DNAのようにデータが「盗用」でもOKである。


科学には所有権がないから、もともと「盗む」という行為がない。それを知らない専門家が間違ったことを言っただけだが、もし仮に科学的事実に所有権があって、人のデータを使うことが「盗用」としても、科学は人間の所有権を超えるものだから、「盗用でも新しい概念の価値は変わらない」のである。


もう少し具体的に考えてみたい。データを取った人は近くの研究室の女性研究員だったが、その人はDNAのX線のデータを取ったが、それから「DNAは二重らせん構造であり、生命は化学物質である」という極めて重要な結論を導き出すことができなかった。


もし彼女のデータに所有権があり、他の人が使えなければ(もし、彼女に断ったとしても、彼女がデータの使用を断ることがある)、人類はDNAの構造を明らかにすることができず、自然を解明することが不可能になる。


科学がすべての結果を「人類共通の財産」としているのは、一つは争いをもたらさないためだが、もう一つは「科学的財産を公知にしておかないと人類の叡智を発揮することができない」からである。


「他人のデータを使ってはいけない」、「引用しなければならない」、「文章をコピペしてはいけない」などは「人間の発展をどう考えるか」について良く考察していないからと思う。


そして、自然科学者は「人間の所有権、個人の名誉」などは「自然を明らかにすること」に比べてとても小さいという感覚を持っている。自然が嫌いで、名誉やお金が欲しい人が自然科学をするから、ややこしい。


(平成26年4月25日)
武田邦彦


(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年4月24日木曜日

STAP事件簿理研編(3) 理研は懲罰をできない






STAP事件簿理研編(3)
 理研は懲罰をできない



親は未成年の子供に対して「親権」という権利を持つ。自分の子供の財産などに対して権利を持つのだが、それには制限がある。あまりにも当然のことだが、親権者は「財産管理権」を行使するので、一定の「行為能力」をもつ者でなければならない。



つまり、「権利」とは、「権利を行使することができる能力」がある場合に限る。いくらお親だからといって、自分自身が財産管理ができないのに、子供の財産を勝手に処分することができないのは当たり前である。



それは親権のようなものばかりではなく、一般社会でも常識で、「泥棒が泥棒を裁くことはできない」とたとえで言われることもある。



今回のSTAP事件では、理研は「組織として当然、やるべきこと」をしなかった。やるべきことをしない組織が、「その雇用者の懲罰だけはできる」ということにはならない。こんなことを認めると社会正義、公序良俗を失うので、その影響は大きい。理研が「組織としてしなければならなかったこと」は次のように整理できる。



  • 任命責任の欠如: 理研は小保方さんをユニットリーダーというある程度、独立した研究ができるというグループの研究リーダーにした。(理研は記者会見で小保方さんを「研究者にあるまじき」と批判したが、研究者にあるまじきミスをする人を任命した責任を取らなければならない。)

  • 上司の職務怠慢: 理研は笹井さんという京都大学教授から転身した人を「小保方さんの論文をネイチャーに通すため」に「論文作成チーム」に所属させた(笹井さんの記者会見から)。小保方さんの論文は笹井さんがチームに加わる前に一度、ネイチャーに提出されて、掲載を拒絶(リジェクト)されている。ということは、その論文が「提出される論文が学問的に正しく、提出する価値があるか」を判断し、その後、具体的な助力をする以外にやり方がない。つまり、論文内容が不十分だから拒絶されたのか、論理や書き方が不十分だからかの判断が必要だ。笹井さんは論文としての価値があると判断して助力したのだから、論文内容を知らなかった(データに矛盾がなく、写真の加工(ネットのチェッカーが一週間ほどでわかるものを1年かけてわからなかった)にも気が付かなかった(武田は「写真が加工されていた」と言うだけでは不正でもなんでもなく「写真を加工しないと論文が通らない」という証明が必要だと考えている)。

  • 上司の能力不足: 小保方さんはユニットリーダーになる前に若山研究室で研究をしていた(笹井さん記者会見より)。その時に今回の論文をネイチャーに投稿している。この時には小保方さんは平研究員だったのだから、この論文の責任は若山さん(現山梨大学教授)にある。今回の問題となった写真3枚やそのほかのミスの多くは現論文で発生していると考えられる。笹井さんが参加してからの文章がコピペなら笹井さんに問題があり、ユニットリーダーになる前にコピペや加工があったなら「組織」としては若山さんに責任がある。大学教授になるためには、本人が論文と出すだけの能力とともに学生や研究生の論文をチェックしたり、修正したりする能力があるはずで、能力がある人がその能力を発揮できなかったのだから、職務怠慢である。

  • 特許の不正申請: 2013年3月10日に出された論文と同年4月25日に申請された特許はタイトルや発明者などから見て同一内容と思われるが、「提出すべきデータではない」というものを特許申請したということになり、組織として犯罪を行ったということになる。

  • 組織内の対立構図の創造: 理研は小保方さんとの意思の疎通を欠く状態で「理研のお金=税金」を使用して記者会見をし、笹井さんの記者会見も税金を使った。しかし、小保方さんの記者会見は小保方さんの個人のお金でおこなった。それなら、理研は小保方さんの記者会見を禁止すべきであった。つまり組織内の人間は、その組織を批判する記者会見を自由に開くことはできないし、逆に組織もそこに所属する人を「組織の公的なお金」を使って批判することもできない。また小保方さんの記者会見を認めるなら費用も負担しなければならない。その意味で、理研は税金を使って組織内の対立構図を積極的に公にしたのだから、組織としての体をなしていない。



まだまだ「理研が組織ではない」ということが多いが、「組織ではない理研」は「組織の一員の懲罰」ができないことは明らかで、いったん理研を解散し、もしくは経営陣を一新し、数年かけて「組織としての社会的な信頼性」を回復してからにしなければならない。それまでこの組織に「税金」を投入するべきではないと考えられる。


(平成26年4月24日)

(本日、理研の調査委員会の委員長が不祥事で辞任しました。でも、もともとここに書いたように理研には資格はなかったと思います。)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





2014年4月23日水曜日

STAP事件簿理研編(2) 雇用者を貶める組織






STAP事件簿理研編(2)
 雇用者を貶める組織



「身内をかばう」必要はないが、かといって「身内ならでは」知らないことを事件が起こると暴かれるというのは辛い。人間の日常生活は「表面」と少しは違う。どんな美人でもトイレに行くと考えたくないが、それも事実だが、いくら事実でもその写真を公表されるのは辛い。



今回のSTAP事件、特に理研の委員会の記者会見は「組織の中で仕事をする若者」には大きな打撃を与えただろう。小保方さんが「悪かった」から「悪い」と言ったわけではなく、「社会が悪いと言っているので、悪いところを探した」ということだったからだ。



委員会が「不正」と認めたのに、2枚の写真が間違っていたことと、1枚の写真が加工されていたことだ。これが「悪意」であるためには最低でも、次のことが必要だろう。



2枚の写真は「単純ミス」だったか、「悪意」だったかは、「正しい写真がないか」、「正しい写真があっても、違う写真を使わないと結論が出ない」かどちらかである。「正しい写真はあった」し、「違う写真を使わなくても結論は変わらない」のだから悪意は存在しない。


写真を加工する目的は、「わかりやすくするため」か「ウソをついて加工しなければ結論が得られない」という2つがあるが、加工された写真は80枚の図表と4つのビデオの一つで、重心的な写真(これがなければ結論が変わる)というものではない。


動機が必要である。「悪意」、「捏造」などが存在するためには、「動機」がいる。論文は、2枚の写真と1枚の写真の加工を除いても論文は通るし、結論も変わらない。すでに持っている正しい写真を使わず、1枚の写真を加工する動機がない。


論文は小保方さんばかりか、若山さん、笹井さんなどが深く関与しているので、悪意が誰にあったかを特定する必要がある。


ところが、「実験ノート」という「悪意」とは無関係の内部事実を持ち出し、「研究が杜撰だった」という印象を与え、「研究が杜撰だったから悪意だ」という論理を使った。学者にはあるまじき論理展開で、委員会の「悪意」は明白である。



「実験ノート」を委員会が持ち出したのがなぜ「悪意」かというと、日常的な研究の状態で彼女の不利になる(本当はノートはいらないが)ことを暴いたからだ。「捏造されていなければ論文は通らない」というもっとも基本的なことは言わずに、「あり得ない」、「杜撰だ」と繰り返したのは「悪意」以外の何物でもない。



また、雇用者に関する事件なのに、事前に十分な調査をせず、「本人は承知しているのか?」という質問に「異議申し立てをすればよい」というのは組織ではない。理研が組織としての見識を持っていないのだから、彼女を懲罰する権利はない。形式的に組織だから権利が発生するのではなく、組織は組織としての言動を保つことが前提条件だ。



十分に聞きとり、「事実」についてできれば100%合意し、その上で判断し、その判断についても本人の了解を得て、それから外部に公表するというのは、本人をかばうというより「中立的方法」である。



その意味で、今回の事件は、理研に悪意があったのは明らかであり、マスコミが「大きな組織は叩かない」という原理があることを巧みに利用したものであることは明らかである。



(平成26年4月23日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年4月22日火曜日

STAP事件簿理研編(1) 迷惑の原因は誰が作ったのか?





STAP事件簿理研編(1)
 迷惑の原因は誰が作ったのか?




なにか事件が起きたとき、その人が所属する団体(会社など)は、その事件で被害を受けた人に対して「会社として謝罪する」と言うことがある。その時は「このたび・・・を起こしまして・・・」と謝ることが多い。



今回の場合では「本来はネイチャーに論文を出しただけなので、格別、社会にご迷惑をおかけしたのではないのですが、理研が派手に記者発表をしたために、皆様に過大のご期待を・・・」というようなことになるだろう。



ネイチャーに論文がでることはあるので、それを派手に宣伝しなければ学術論文の一つとして扱われるので、格別「ご迷惑」をおかけすることはない。でも今度の場合、「理研」という組織が大々的に発表したので、テレビも新聞も「理研だから大きなことなのだろう」と思い、その発見に理研自体が疑問を持っているなど思いもしない。



だから、マスコミもマスコミだが、もし社会が迷惑を蒙ったとしたらそれは「理研だから信頼性がある」と思わせた理研の方であることは間違いない。



ところが、こともあろうに小保方さんの論文の「書き方」を理研自体が咎める記者会見をして、「悪意があるかもしれないので、調査委員会を作る」と言った。調査委員会を作るならまずは「派手な記者会見を提案した人、承認した人」を調査しなければならない。



次に、理研はほぼ同じ内容に特許を出している。特許というのは研究者が出すものではなく、組織が出すものだから、論文がおかしければ特許をまずは取り下げなければならないし、そんな特許を認めた人が理研の中にいる(この種の特許には一千万円を超える経費がいる)ので、税金を無駄使いした責任は重大だ。



つまり、理研は理事長まででて、何をわびたのか、論文がおかしければ特許はどうしたのかを最初に説明する必要があった。これだけでも理研にはなにか犯罪のにおいがする。



(平成26年4月22日)
武田邦彦
(出典:武田邦彦先生のブログ





2014年4月19日土曜日

STAP事件簿後日譚 論文の不備を誰がわかったのか?





STAP事件簿後日譚
 論文の不備を誰がわかったのか?




正確な日時は次第に明らかになっていくと思うけれど、STAP論文が掲載されたのが1月29日。ネットで最初の「欠点の指摘」があったのが、確か2月4日で6日しかたっていない。これが2月14日でも16日だから、「出てすぐ」には変わりはない。



世界中で毎日、多くの論文がでるが、主要なものだけで100ケ以上はある。その中で、このネイチャーの論文に注目し、掲載された日に論文を読み、80ケもある画像をすべてチェックし、ビデオを検査し、文章にコピペがないかを見て、論文引用(40ケほど)、図表の説明、その他の記述を全部読み、理解するだけでも2,3日はかかる。



そのうえ、小保方さんの博士論文はPDFで入手できると聞いたことがあるが、そうなると博士論文にでている図とネイチャーの80枚のうちの2枚が類似しているということは「図のデジタル情報」からはわからず、目で見ないと類似しているかどうか不明である。



さらにPDFから電子化したファイルを作り、そこに書かれた文章が世界のどこかにある文章と類似していることを知るためには、電子化の作業がかなり大変である。



もともと、STAP論文は、2012年に若山先生の指導の下で小保方さんが書いてネイチャーに投稿し、拒絶(リジェクト)されている。そこからのものだから、小保方さん、若山先生、笹井さんという一流の当該研究の研究者が2年ほど見ていて、さらにこれも世界一流の査読委員(複数)でやるネイチャーで10か月ほどの査読を経ている。



つまり世界でもっとも「間違いに気が付きそうな4,5人」が10か月から2年、綿密に見て、修正している時に気が付かなかった欠点をわずか、6日から16日程度の間にわかることは不可能である。



「査読」というのはその分野で最も学力、経験のある学者が複数で綿密に見て、おかしいところを指摘して修正する。私も経験があるが、私が見る分野は世界の学者の名前、その人の文章の特徴、これまでのデータなど全部、頭に入っているから、ちょっとでも類似のものがあったり、画像がおかしかったりしたらすぐわかる。



図表がどのような形で提供されたかは不明だが、私が論文を投稿するときには手持ちの図表、画像のもっとも鮮明なものを提供する。またもし不鮮明の場合、「鮮明なものを出すように」と求められる。



中心的な専門家4,5名が1年ほど綿密に見てわからないものを、関係外の人が1,2週間でわかるはずもない。



つまり、1月29日にSTAP論文が掲載されることをあらかじめわかっていて、またこの論文の不備や小保方さんの研究の欠点もわかっていて、あらかじめ指摘する準備を整えていたとしか考えられない。



そうすると、指摘したほうが何らかの犯罪を犯している可能性が高く、犯罪を犯して指摘したことを無批判にマスコミが拡大したということになると、またまた取材の信頼性を調査せずに国民をだますことになった佐村河内氏の事件と類似になる。



もし身内に「論文を作成している時には間違いを指摘せず、博士論文までよく知っていて、本人が不十分なところを突く」という人がいたら、これはなかなか防ぐことはできないし、データの入手などで不正が行われたことは十分に考えられる。



「不正を指摘する」というと、指摘する方は善人で、指摘される方は悪人と言う先入観があるが、逆の場合も大いにありうる。まして、理研の調査委員会が肝心な点2か所(1か所は実験ノートがあるのに、2冊しかないと言ったこと。もう一つは「差し替える写真が提出されている」のに、それを言わなかった)の明らかなウソを言っている点が気になる。



つまり、もともと理研は小保方さんを守る立場にあるのに、逆にウソをついても小保方さんの「不正」を指摘した。指摘した2か所はどう考えても「意図的」ではないが、それを「悪意」と言った。



また、笹井さんは「STAP現象は確かだが、仮説の段階」と言い、京都大学の先生はそれを受けて「仮説は論文にならない」と言った。普通の論文は仮説が書いてあるのだから、このチームプレーと思われる非学問的な言動も実に不思議である。



疑念は小保方さんではなく、理研の委員会、ネットで指摘した人、それに損害をうけていないのにでたらめを言ってまで徹底的に批判している京都大学の先生などにある。



また早稲田大学の博士論文を審査し、合格させた先生方がまったく登場しないのも理解できない。



せっかくの素晴らしい論文をここまで貶めるのは、単に「善意」とは思えない節が多すぎる。この際、STAP事件を報道し、小保方さんを非難したマスコミは自らのプライドをかけて、「ソース」と「組織」を徹底的に取材してもらいたいものである。



この内容はシアターテレビジョンのご厚意で、無料でユーチューブで見ることもできます。



(平成26年4月19日)
武田邦彦
(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年4月18日金曜日

【続・小保方さんは悪くない!】 武田邦彦がSTAP細胞問題を徹底解説!

武田先生の解説は、いつも非常に理解しやすく的確ですね。

その1 (4月18日収録)

その2 (4月18日収録)


その3 (4月18日収録)


その4 (4月18日収録)



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