2014年8月10日日曜日

【STAP騒動の解説 260808】 STAPの悲劇を作った人たち(2) 最初の人は理研




STAPの悲劇を作った人たち(2) 最初の人は理研



先回のこのシリーズで、STAP事件の報道が放送法に適合していたかという整理から、もともとこの事件は「論文を書いた著者」たち、あるいはその「組織である理研」しか当事者(野次馬ではなく、一般の日本社会の概念で「外野」ではない人。ほぼ利害関係者にあたる)がいなかったのではないか、それ以外の「当事者」はNHKなどが作り上げた特別な人たちではなかったかというところまで書きました。


それでは2014年の1月から笹井さんが自殺をされる8月までの実質6か月(半年)間、放送法第4条の4に記載された「意見が対立している問題」というのはいったい何だったのか、それを整理してみたいと思います。


まず研究をして論文を発表した人たちは当事者です。日本の報道では著者のうち、最初から小保方さんだけを特別に扱っていましたが、それは組織体である理研が小保方さんを区別したこと、NHKなどがその判断をそのまま踏襲したことだけで、学問的に言えば著者は同じ立場と言えます(筆頭著者が責任を持つというのは村の掟で、どこにも書いていません。責任著者というのは一部の雑誌で使われています)。


次に理研ですが、研究を支えてきた組織ですから、やはり当事者です。理研は当初から組織としてはやや常識的ではない振舞をしていました。自ら企画して記者会見をし、論文がネイチャーに投稿されて1週間ぐらいすると、ネットで論文の不備が指摘されました。しかし、この時点で指摘されたことは、写真3枚と小保方さんの個人的なこと(卒業論文の不備)で、論文全体が撤回に相当するような欠陥ではありませんでした。


しかし、この段階で当事者の理研は、記者会見を開き、ノーベル賞を受賞した理事長が「頭を下げて謝罪」をしました。ここでこの事件は、大きくこれまでの日本の常識を逸脱し、その後の「錯覚」を加速させたと考えられます。論文の不備を指摘したのはネットの匿名の人ですから、普通なら理研の担当部長クラスの人が故笹井さんらに電話をして、「論文が不備だという声があるけれどどうか」という問い合わせをしたでしょう。


その後の故笹井さん、小保方さんの記者会見などによると、「研究は先進的なものであり、論文には不備はあったが、不正はない」と言っているのですから、理研の調査や記者会見が行われたころは、「理研内部の当事者は研究には問題はないと言い、ネットが炎上している」という状態だったのです。この段階で理研がなにかの声明を出すとしたら、「STAP論文についてネットなどで疑義が呈されているが、論文は価値のあるものであり、著者らも問題はないとしている。理研としては念のため理研内で調査を行う予定である」というぐらいでしょう。


実際、理研は2013年初頭から「若山、小保方」の研究で論文が拒絶されたことから、故笹井さんを研究に参加させ、2013年4月には特許を出願しています。また、故笹井さんは2014年5月ごろの取材に対して、「論文を作成し始めてから、繰り返し若山、小保方さんと議論を重ねた」と言っていますが、新たに研究に参加した人が、それまで研究していた人と十分な議論をすることも当然です。


つまり理研は1年半ほどの間、理研のエース級の研究者だった故笹井さんにSTAP細胞の論文や研究の進展を任せ、それが新しい研究センターへつながるように進めていたことを示しています。その中心的な論文の一つがネットから指摘があったからと言って、方針が変わるのも不思議です。理研としては、論文評価にあたって信頼できる人は、第一に故笹井さんであり、第二に特許を申請するときにその担当をした弁理士(特許出願担当)であり、第三にネイチャー査読委員だったはずです。その研究が基礎になっている論文の80枚ある写真のうち、2枚に違うものが入っていたとしても、全体の研究に影響が及ぶはずもありません。


理研は笹井さんを信頼して副センター長に起用していましたし、この方面では日本の第一人者として世界の評価も高かったのです。その人が執筆した論文をネットで指摘されたからと言って理研が信頼をなくするということになると、「笹井さんより実力が低い他人(ネット)が、「1年間にわたって笹井、若山、小保方が検討を重ねた論文」について、発表後、1週間も経たないうちに指摘したほうが正しい」と理研が判断したことになるからです。


つまり、STAPの悲劇を作った最初の人は「理研」だったことがわかります。理研が普通の研究機関にように、1)謙虚に批判は受け止め、2)なにが問題だったかを調べ、3)十分な科学的根拠をもって調査をする、ことをしていれば、STAP事件そのものは「ネットの炎上」だけで終わったでしょう。


ところが理研が「調査委員会」なるものを作り、不完全な規則を使い(このブログの剽窃論に詳しい。実施不可能な内規で捏造や剽窃とした)、論文の不備が問題になっている(小保方さん個人の問題ではない)のに著者のうち理由を示さずに小保方さんだけを理研は調査対象にしたのです。さらに調査が行き届かないうちに中間報告をして、その中でたとえば実験ノートが提出されていないのに、提出されたと委員長が記者会見でウソまで言ったのです。


この段階で、社会はあまりに不合理に進む理研の調査に疑問を持ちつつ、これほどの不合理が続くのであれば、表面的に発表されること以外になにか大きな間違いがあったのではないか、それが理事長の記者会見の異様ともいえる表情に表れているのではないかと勘繰り始めたのです。


つまり、理研は「もともと無いものをあることにした」という意味で、当事者のいない事件を創作し、それを引き継いだのがNHK、毎日新聞、そして関西系のテレビ番組などでした。

(平成26年8月8日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ


2014年8月9日土曜日

【STAP騒動の解説 260802】 剽窃論 第二章 法律と内規(著作権法と剽窃の内規)(その3)




剽窃論 第二章 法律と内規
(著作権法と剽窃の内規)(その3)


 3.自然科学の論文とその内容

科学には、人文科学、社会科学、そして自然科学があるが、ここではそれぞれの例として、歴史学、経済学、物理学を取り上げる。
 歴史学   歴史的事実を明らかにして、解釈を与える。
 経済学   経済的事実を明らかにして、解釈を与える。
 物理学   物理的事実を明らかにして、解釈を与える。

時々刻々、場所によっても違いはあるが、「事実」は基本的には1つしかない。そして解釈も基本的には「もっとも真実に近い解釈」が1つあるだけで、それに近づくために人間の能力の範囲で複数の解釈が生まれるが、最終的には1つを目指している。ただ、歴史学は事実の観測手段が複雑で、価値観と結びつきやすく、経済学は研究対象とする人間社会の変化が複雑で、今のところ、「学問が事実の変化に追いつくことはできない」という状態である。つまり、歴史学では、将来、過去に起こった歴史的事実を遠方の星からの反射波を分析して確定する(たとえば、1000光年かなたの星の反射光は2000年後に地球に到達するので、この技術ができれば2000年前の事実を確定できる)手段が生まれるまでは、事実の確定は難しいだろう。 

また経済学では社会のすべての人の行動をビッグデータで解析できるようになったら、推定が減って諸説は一つの解釈にまとまると考えられる。現在の状態はちょうど、コンピュータで天気予報をしようとしても、計算が終わるまでに翌日になってしまうという状態に似ている。このように、どの分野でもほぼ類似の活動をしているが、現実に使われている手法はかなり異なる。現実に「引用」、「盗用」ということでは大きく考え方も現実的な方法も異なるので、まずは整理や議論が拡散しないために物理学からスタートすることとしたい。

具体的な例として、1905年にアインシュタインが出した有名な3論文(相対性原理や光電効果など)、1953年にワトソンとクリックが出したDNA論文(ネイチャーに掲載)、この論文(文理融合論文で、ネットにだすもの)、さらに先日、私がテレビで使った画像を用いたい。

まず、1905年のアインシュタインの相対性原理の論文であるが、アインシュタインが提案し、まだ議論のある頃には、「アインシュタインが***としている場所と時間を含む方程式は・・・」というような学術論文がでて、その時には論文は引用されている。つまり、1)公開されてからしばらくの間、2)その結果について議論がある期間、に限って引用されていたが、相対性原理が普遍的な原理として認められたあとは、「アインシュタインの相対性原理によれば」と記載されて、論文は引用されなくなる。さらに原理として定着したあとは、「アインシュタインの」という個人名が抜けて、単に「相対性原理によれば」と記載される。

現代では、なにも記載せずに「質量とエネルギーの関係は、mc2=Eであることから」と書く。すでに論文引用も発見者も、そして原理の名称も表示しない。このことから、「他人が論文で明らかにしたもの」を引用するかどうかは、発表されて議論がある時代、議論がなくなったがまだその村(学会)に十分に知られていない時代、さらに社会的にも認知されていて名称などを示す必要がない程度になった場合、などによって異なることがわかる。

しかし、初期の状態から原論文を引用しなくてよい次の段階に入るかの規則はなく、単に「村の雰囲気」で決まる。それで問題にならなかったのは、1)アインシュタインの相対性原理論文が著作権や特許権を持っていないこと、2)アインシュタインが権利を主張していないこと、3)あまりに専門的だったので感情的な反応がなかったこと、4)そのうち定説となったこと、が原因だったと思う。いずれにしても学問がもとめる「普遍的なこと」とは遠いことだ。

ところで、物理を学んだ私の感じでは、物理学の勉強や研究でアインシュタインの論文を参照したことはなかった。すでに多くの基礎物理学の書籍に偉い先生が丁寧に解説してくれているので、それを勉強してアインシュタインの概念と式を学んだ。

その後、複数の論文で質量とエネルギーの関係の説明および式を使ったが、引用することはなかった。引用するとしても、私が勉強した教科書を引用するのか、それともアインシュタインの原著を引用するのかは判断できなかった。このようなとき、普通は教科書を引用するのだが、その逆の経験もあった。

ある時に、ダーウィンの原著の中の一節を引用したので、原著を引用欄に書いた。出版時期は1870年ぐらいと思う。そうしたら、査読の時に査読委員から「原著を引用しても、それを見ることができないから、読者が参照できるものを引用しなさい」と言われて困ったことがある。実は引用は英語で、英語で直接引用することが大切だったが、日本では日本訳しか普通には手に入らないからだ。

つまり、この場合、査読委員は私が引用した「内容」はダーウィンがオリジナルだということで引用するのではなく、読者が参考になるためにということで、「引用」のもう一つの意味を言っている。つまり、剽窃を防ぐには引用すればよいというが、引用には二つの意味があり、一つは著者への敬意、一つは読者の参考だ。そのどちらを指しているのかが不明確なのである。

さらに、DNAの構造は膨大な書籍の中に1953年にワトソンとクリックがネイチャーの論文で示した「二重らせん構造」が使用されている。書籍のほとんどは彼らの論文を引用していない。それは「DNAの二重らせん構造」は「公知の事実」と思われているので、「無断で利用してよい」と「暗黙の掟」で思っているからに過ぎない。

もちろんDNA論文は著作権もないし、特許権も申請されていないので、法的には問題がないが、論文を引用しないで「DNAはらせん構造だから」と書くのは剽窃にあたる。そうするとほとんどの書物が剽窃として「研究不正」にあたるだろう。

次にぐっとレベルが下がって、「この論文」(武田邦彦著、ネット掲載)を取り上げてみたい。この論文はそのレベルはともかく、私が書いて公開したものだ。しかし、この論文には多くの「他人の考え、文章」が示されている。だから、この論文を書いた瞬間(つまり、私の考えをパソコンに表示した瞬間)から、もし剽窃について他人が同じ「考え」をどこかに書いたら、それは剽窃に当たるから「研究者として許すことができない」と断罪しなければならない。

でも、研究不正の専門家は、「武田が自分の頭に浮かんだものなどわからないじゃないか。それにネットに掲載したからといってその全部に目を通すことはできない」というだろう。つまり政府や理研の規則にある「他人の考えを引用せずに使うことは剽窃」というのは、なにか別の意味を持つ制限を持っていることは明らかである。

もう一つ、この論文はなにも引用していない。アインシュタインもワトソン・クリックも、理研の規則集も無断で使っている。ということはこの論文は剽窃に満ち満ちているが、そのことで私がこの文章をネットに出すと、「剽窃」として罰せられるのだろうか? 私を剽窃の罪で調査するのは私の所属する大学だろうか? 著作権なら著作権者がいるから私が無断で利用すると「損害」を受けるからあるいは著作権者が訴えると思うが、この論文でアインシュタインが損害を受けるわけではない。だれも訴えても得をしない。

もし、この論文を私が所属する大学が審査する場合、その目的はなんだろうか? 誰にも損害は与えていないが、教育上の配慮で老教授の自由な論評の欠陥を調査して、教授会で議論するということをすると、かなり時間の浪費のように思われる。それは社会的に正しいことだろうか??

さらに最後に私はテレビで「未来の科学」をお話しすることがある。そこでは、顔認証による自由な預貯金の払い出しや改札のように、すでに誰かが着想しているものもあるが、一つ一つはテレビでお話をする時に、「これは誰の着想」などと引用しない。また私独自に「こんなものはできるだろう。なぜなら物理学でここまでは分かっているから」という新しい材料や機器を創造して示しているが、それが現実になった時に発明者は私のテレビ放送を引用してくれるのだろうか?

「他人の考え」というのは、映像や文章そのものではない。その映像や文章によって示された科学的概念やデータから導き出されて新しく発見された現象などである。それらは「思想又は感情に基づく創造物」ではないので著作権はないが、「剽窃」に当たる。

2014年に問題になった理研の調査は「自然科学領域における剽窃」に関するものであり、日本の多くの学者(少なくともメディアが取り上げた学者)は「他人の考えや文章を引用なしに使うのは許されない。そんなことは学者にとって当たり前のことだ」と言ったが、ここまでの検討で明らかになったように、それは「狭い仲間内で、査読付き論文に書かれているか、権威のある人が書いたもので、仲間の間の仁義から許されざるもの」ということと推定される。

しかし、「仲間」、「権威」、「仁義」のいずれも「学問」とはかなり距離が遠いので、結局、その人その人で任意に「やってはいけないこと」を決めていると考えられ、厳密で正確、感情を排する自然科学では、あいまいな制限をする方が「許されないもの」と考えられる。

(平成26年8月2日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ



2014年8月8日金曜日

【STAP騒動の解説 260808】 STAPの悲劇を作った人たち(1) 放送法の意味




STAPの悲劇を作った人たち(1) 放送法の意味



(先日、このブログで笹井さんの自殺について扱ったが、あまりに可哀想な事件が起こったことから、記事の調子がこのブログの趣旨(常に前向き)と少し違ったので、いったん下げてキチンと論述することにした。内容としては同じである)


NHKは国民の預託を受けて放送業をしていますが、その時に国民と約束したことがあります。それが放送法で、特にその第4条が重要です。
 一  公安及び善良な風俗を害しないこと。
 二  政治的に公平であること。
 三  報道は事実をまげないですること。
 四  意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。


放送はNHKでも民法でも基本的には同じですが、特にNHKは国民から強制的に受信料をとり、日本人全員が良質な放送を見たり聞いたりできるように特別なシステムを持っていますので、良い方向を向けば国民にとっては有意義なことになりますが、間違ったことをしたらその被害はものすごいものになります。


だから、第4条に定められた4つの最低条件は、民放にも及びますが、まずはNHKが絶対に守る必要があるもので、この条件を守るからこそNHKというものが存在できるともいえます。


7月27日のNHKスペシャル、STAP事件を扱ったこの番組は第4条に大きく悖る(もとる、反する)もので、STAPの悲劇を招いた直接的原因になったと考えられます。NHKスペシャルは第4条の一、三にも反していますが、特にここでは“四”の重要性について整理をしてみたいと思っています。


社会生活を送っていると、時々、不意にトラブルに巻き込まれることがあります。それは自分が原因していることもあれば、他人から仕掛けられることもあります。日常的な小さなトラブルはともかく、社会的に問題になるようなことが起これば、その内容はともかく、日本人が相互に約束したこと(法律で決まっていること)によって裁判所で和解か判決を受けて処理できるという確信があります。


このような日本社会の基本を守ることは、NHKはもとより一国民としてもとても重要なことは言うまでもありません。“一”に書かれた「善良は風俗」というのをあまり大きく拡大してはいけませんが、まずは「法律を守ること」や「相手をゆえなく侮辱すること」などが大切でしょう。


ところが、ある特定の人が法律にも訴えずに、全国民にある個人の名誉に関係することを一方的に放送したり、報道されたりしたら、とんでもないことになります。幸福で平和な生活を一瞬にして特定の人の為に奪われることになります。そんな場合でも被害を受けたほうが裁判に訴えることができますが、NHKのような巨大な組織を相手に裁判を起こすこと自体が難しいのです。


まず、裁判になると訴えた一個人の方は仕事もできず、体力も消耗し、お金もかかります。一方、NHKの方は裁判担当弁護士をお金で雇い、大勢の人が分担し、それにかかった費用は受信料から支払うことができます。これでは形式だけ「もしNHKが一個人の名誉を傷つけたら裁判に訴えればよい」と言っても、それは形式だけであって、現実性のない話になります。


そこで、NHKという組織を置く前提として、この4つの項目を守ることをNHKは国民と約束即しているのですが、特に“四”は重要です。「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」です。


この条文はとても大切(法律ですから、国民とNHKの約束なので、もともと「大切」とか「大切ではない」ということはなく、すべて「大切」)です。日本国民が法律で罰せられる場合は、キチンとした手続きがあり、十分な弁明の機会が与えられます。日本の裁判は「起訴されたら有罪」というところがあり、「裁判は死んだ」とも言われていますが、それでも弁明の機会は与えられます。


しかし、NHKがある特定の個人を葬ろうと思ったら、「放送」という権力を使って、手続きなしに個人を葬ることができます。そんなことをされたら、日本という自由で人権がある国に住んでいるとは言えなくなります。もしそんなことをNHKがしたら、日本は「NHK独裁国家」になり、いつ何時、社会的に葬り去られるか、あるいは精神的な圧力を受けて自らの命を絶たなければならない羽目に陥ります。


NHKは政治団体でもなく、宗教団体でもなく、もしくは教育機関でもありません。単に国民がNHKという情報提供機関を作って、できるだけ正確な情報の提供を求め、それによって国民が正しく考えられるシステムを作ったに過ぎないのです。


STAP事件の当事者は、(故)笹井さん、小保方さん、丹羽さん、それに若山さんであり、この人たちと「意見が対立している人」というのは、「現在の日本にはいません」!! だからNHKがSTAP事件を報じるときには、研究者の言っていることを報じることはあり得ますが、STAP事件を批判している人のことを報じることはあり得ないのです。


STAP事件発生以来、当事者というのは、「STAPの研究者」、「理研」、それにかなり拡大すれば「文科省」ぐらいで、あとは「外野」、つまり「利害関係者」ではありません。それにもかかわらず、NHKが7月27日のNHKスペシャルで、仮想的な「反撃グループ」を中心に据えて、当事者のことを報じないというあり得ないことをして、当事者としての研究者に大きな打撃を与え、因果関係はまだはっきりしないものの、その直後に研究者の自殺を招いたことは日本社会にとってどうしても解明しなければならないことです。

(平成26年8月8日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ



2014年8月7日木曜日

【STAP騒動の解説 260802】剽窃論 第二章 法律と内規(著作権法と剽窃の内規)(その2)




剽窃論 第二章 法律と内規
(著作権法と剽窃の内規)(その2)


2.  理研の内規
最初に、理研が「研究不正」としている内規を参考にしたい。
「第2条 この規程において「研究者等」とは、研究所の研究活動に従事する者をいう。
 2 この規程において「研究不正」とは、研究者等が研究活動を行う場合における次の各号に掲げる行為をいう。ただし、悪意のない間違い及び意見の相違は含まないものとする。
(1)捏造  データや研究結果を作り上げ、これを記録または報告すること。
(2)改ざん 研究資料、試料、機器、過程に操作を加え、データや研究結果の変更や省略により、研究活動によって得られた結果等を真正でないものに加工すること。
 (3)盗用  他人の考え、作業内容、研究結果や文章を、適切な引用表記をせずに使用すること。」
研究不正としての「捏造(ねつぞう)」や「改竄(かいざん)」についても整理したいが論点を絞るほうが良いので、ここでは「盗用」だけを取り上げたい。
理研の規則では、「他人の考え、作業内容、研究結果や文章」を「適切な引用表記をせずに使用すること」と「盗用=剽窃」になる。今回のSTAP事件では、この条項に反するとして処分の対象になったのだが、この規則はどのように評価するべきだろうか?
まず「引用しなければならないもの」として、「他人の考え」、「作業内容」、「研究結果」、それに「文章」とある。直ちに「不適切な内規」であることがわかる。 つまり、「他人の考え」というのは、読んでそのまま理解すると、理研やこの世の中に生きていたり、すでに亡くなっている人のすべての頭の中にある「考え」ということになる。
すべての人の頭の中にあることを「引用」するという方法はどういう方法がありうるだろうか? 古今東西の歴史上の人物や現在、生きている人のすべてにアンケートをだし、「これから次のことを論文に書こうと思っているが、それに関して現在もしくは過去に貴殿の頭脳に考えとしてある場合、ご連絡ください」と聞き、その結果を網羅しなければならない。
このことからわかるが、前節に整理した著作権法が「表現されたもの」という制限を置いているのは、表現されていなければ引用する具体的な方法がないからである。おそらくこの規定は文章が不適切で、「理研の従業員が、理研内部の研究会で発言などから知った他人の考えを盗み取るようなことはいけない」というようにきわめて限定された状況を想定しているのだろう。それでも「具体的な発言」などがなく、相手の「考え」を推定するのはたとえ小さい組織の中でも困難であると思われる。
また、「作業内容」では、たとえば「酸性溶液をピペットで採取し」という作業内容を書くときに、このような手段は「常用」のものであるから、多くの人が実施している。それを引用しなければならないということになると、同じ作業をした人のことをすべて引用しなければならないのでこれも非現実的である。
したがって、この規則(第3項)を根拠に理研の論文を審査したら、すべての論文が「不正」になるのは間違いない。すべての論文が不正になる規則を使用して、ある人が任意にその既定の中の一部だけを、特定の相手に対して適応するというのは、明らかに法律的な考えにも、公序良俗にも反する。「自分の嫌いな人を有罪にできる」という規則になるので、この条文自体が「盗用」の範囲を決めていないと言える。
ところで、研究不正に関する盗用について公表しているのは、文化庁と文科省などの政府機関であり、「理研の内規はそれらの規則に準じている」と言われる。しかし、すでに日本政府(監督官庁の文化庁)などの方針ははっきりしており、芸術、音楽などを含む知的財産の盗用については著作権法に従うとしている。
これについて政府の研究不正の概念を書いている平田容章さんの「研究活動にかかわる不正行為」によると、「著作権法の保護の対象は「思想又は感情を創作的に表現したもの」(著作権法2条)であるため、他の研究者等の研究成果やアイデアに基づく記述が論文にあったとしても、他者の著作物と同一又は実質的に同一の表現である、又は翻案であると認められない限り、著作権及び著作者人格権の侵害にはならない。」とし採用しており、したがって「研究不正」は法的な決まりではないと結論している。
その結果、研究機関ごと(文科省、東大、京大、理研など)に独自に「研究不正」を決めていて、その内容はほとんど理研と同じである。そこで「無期限に他人の頭に浮かんだアイディアを論文や著作に書いたら研究不正になる」という実施不可能なことが現在の「研究不正の判断の基礎」になっている。このようなことが起こったのは、学会がもともと「アウトロー」の体質を持っていることによると考えられる。
ここでいう「アウトロー」とは次の特徴を持つ。
1.法律より自分たちの内部の掟を優先する、
2.掟はあいまいで、どんなときにも適応できるので、嫌いな奴を処分することができる、
3.権力の方(罰する方)に入っていれば罰せられることはない。
実際にも、2014年のSTAP事件の時には、著者が複数いて誰が執筆し、だれが最終修正をしたかを明らかにせず、小保方さんだけを調査した。後に査読後の最終修正を若山さんが他の共著者の了解を得ずにしたことが明らかになった。また調査委員長が同じ種類の「不正」をしたが、委員長は辞任だけで済んでいる。
この種の専門学会では年配の男性か、もしくは女性の研究者が「**は最低の倫理である」というような抽象的な理由で自らの考えを主張することが多い。そしてそれは、「社会の中での著作物」ということではなく、「仲間うちの掟」の色彩が強く、それがこのような非論理的な結果を生んでいると思われる.
理研は上記の「研究不正の3つの内規」のほかに、研究不正への加担ということで、研究不正を見逃すこと、研究不正に加担することを挙げている。2014年のSTAP事件では、同じ立場の著者のうち、「バッシングしやすい女性だから」ということだけで、若山、丹羽、(故)笹井氏は小保方さんより年齢、地位、経験などから論文の責任はより重いとするのが常識的だろう。
その意味で、もし論文の責任を追及するなら小保方さんではなく、第一に若山、(故)笹井さん、第二に丹羽、第三に小保方であることは明らかだが、現実は小保方さんだけが調査委員会にかけられ、不正とされた。実に不当であり、まさに「貶めたい人を任意に貶められる」という規則であることが示された。
次に、不正を見逃し、不正に加担したという意味では、大々的な記者会見を行った理研、担当理事、理事長も合わせてほぼ同じ罪だ。このようにゆがんだ規則は不合理な処分を産む原因になると考えられる。

(平成26年8月2日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ



2014年8月6日水曜日

【STAP騒動の解説 260806】 剽窃論 第二章 法律と内規(著作権法と剽窃の内規) (その1の2)



【STAP騒動の解説 260806】
剽窃論 第二章 法律と内規
(著作権法と剽窃の内規) (その1の2)



2-2  著作権の例外とその意味


著作権の使用については若干の例外があり、上記の「政府などの公的機関の著作物」や、下記の「学校における使用」、「非営利での利用」がある。


(教育上の利用など(条文の一部の例外規定は法律を参照のこと)
「第三十五条  学校その他の教育機関において教育を担任する者及び授業を受ける者は、その授業の過程における使用に供することを目的とする場合には、公表された著作物を複製することができる。(後略)」


「第三十八条  公表された著作物は、営利を目的とせず、かつ、聴衆又は観衆から料金を受けない場合には、公に上演し、演奏し、上映し、又は口述することができる。(後略)」


「同条4  公表された著作物は営利を目的とせず、かつ、その複製物の貸与を受ける者から料金を受けない場合には、その複製物の貸与により公衆に提供することができる。」


この三つの条文は当たり前のように思われるが、著作権というものを理解するうえで重要である。つまり、著作権は個人の権利のほうが「人間本来の権利」として与えられているのではなく、もともとは「知的財産」として人類共通のものなので、教育や非営利などの場合、その権利をもとめることはできないという意味がある。


第三十八条は「上演、演奏、上映、口述」などが対象ではあるが、同条4も加えると、「営利を目的としない場合、たとえ著作物であっても自由な利用が許される」とできる。厳密な法解釈ではなく、法の趣旨という意味では、著作権は認めるけれど、非営利の場合には、著作権を主張できないので、法律に基づいて教育研究上の内規などを決めるときには、著作権法そのものよりやや緩やかにするのが妥当であることがわかる。


たとえば論文は、提出するときに著者の方から経費を払い、副生物も著者は販売しないから、著者が著作権を持つわけではない。商業的な雑誌に論文を掲載する場合は、著作権を著者から出版社などに移転することがあるが、もともと著作権のない論文の場合、商業的に取り扱うから著作権を生じるかという問題がある。


またたとえば博士論文のようなものは教育が主眼であり、もちろん非営利の研究目的であり、さらには有償で配布することはほとんどない。したがって、たとえその論文が「思想又は感情に基づいた創作物」であっても、教育研究関係で使用する限りは、少なくともその内部において自由に使用できると解釈するべきだろう。


また、早稲田大学の委員会が博士論文の中での剽窃を、著作権法に準じて「許されない」としているのは、博士論文が営利に属すると解釈しているのか、もしくは学者や弁護士にありがちではあるが、「人類の共通財産」より、個人の権利の制限が主眼となり、「自主規制のやりすぎ」や「過度の潔癖症」が判断の理由になっている可能性もあり、その論拠を明らかにしていかなければならないだろう。


この剽窃論で示すように、他人の書いたものをどのように利用するかという問題は、知の所有権、個人の名誉、閉鎖的だったころの特権階級としての学会の伝統、論文の厳密性を保つうえで必要な掟などが混在していると考えられる。


最後に、著作権は人間本来の権利ではないので「期限付き」であることを示す。
 「第五十一条 の2  著作権は、著作者の死後五十年を経過するまでの間、存続する。」


となっている。もともと25年だった保護期間が50年に伸びたのは、アメリカの商業団体の要請であり、日本でも「著作権は長く保護されなければならない」という考え方が正しいのかどうか、さらに論じる必要がある。


「正しいとは何か」という私の問いからいえば、論文を書くにあたって守るべきこと、社会が論文の著者に求めることは著作権法の範囲にとどめたほうがトラブルが少ないと私は考えている。


もし著作権法で保護されること以外の要求をするのであれば(つまり、著作権がないものも使っていけないとか引用しなければならないというような内規=現在の理研や多くの大学の内規=を決める場合は、「人類共通の財産」を少なくし「個人の権利」を多くするのが適切かという理論的な研究が必要で、それには「研究費をどこから出すか」の問題も含まれている。

(平成26年8月6日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年8月5日火曜日

【STAP騒動の解説 260802】 剽窃論 第二章 法律と内規(著作権法と剽窃の内規) (その1)



【STAP騒動の解説 260802】
剽窃論 第二章 法律と内規
(著作権法と剽窃の内規)(その1)


第二章では、第一章で具体的な事例を考えた後、それでは著作権法や理研の内規などがどのように決まっているかについての基礎的な知見を得ることにする。

6.著作権法
日本の著作物は著作権法で守られる。著作物はそれを利用するときには引用が必要である。それでは著作権法では現実にどのように定義され、運用されているのだろうか?
まず、「著作物」の定義は第二条でなされている。
 「第二条 の一  著作物 思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。    二  著作者 著作物を創作する者をいう。」
一般的には「著作物」とは「著作されたものすべて」と錯覚されているが、厳密に剽窃などを論じるときには、著作物は上記の定義に入るものだけである。つまり、「著作物」と呼べるのは、「思想又は感情を創作的に表現は感情」に基づくものでなければならないので、「事実の記載」や「事実の描写」したものは著作物ではない。
このように著作物を狭く定義していること、つまり「人類が作り出した知の財産」のうちの一部しか認めていないのは、次章に整理するが「人間の知の財産は広く社会で活用すべきである」という考え方からきている。つまり「個人の所有権」が万能の時代なので、錯覚している人がいるが、昔から人類には「個人の所有権」より崇高だと考えられているものがあり、それが「共有財産」であり、著作物は一般的には人類共通の財産としている。
第二に「創作的」ということで、創作とは、1)今までになかったこと、2)事実ではなく想像で作ること、の2つがある。ここで一般的には物理や生物など自然を対象とする学問の著述物(自然科学のもの)はすべて除かれる。というのは、自然科学は「自然を明らかにいること」だから、自然科学が明らかにするものは、すべて「太古の昔から自然の中にあるものがほとんど」だからである。
工学的なものは新幹線、航空機など「太古の昔にはなかった」というものが多いので、創作的ともいえるが、このような工業製品は著作権ではなく、工業所有権で守られるのが普通である。その場合は「記載事項」ではなく、「特許請求の範囲」で厳密に権利の及ぶ範囲が決められる。
また科学は「創作」で何かを作ると、対象が自然現象だから「捏造」になることが多く、やはり著作権にはなじまない。そこで、愛知大学の時実象一教授が「図書館情報学」(2009)で書かれているように、「学術論文に掲載されている事実やデータには著作性が無いと考えてよい」ということになるし、さらに実験結果などは、「実験結果の記述は誰が書いても同じような記述になると考えられる」という判例(大阪高裁2005年4月28日)のような判断になるのである。
さらに著作権法は、「表現したもの」という限定を置いている。著作物とは書籍、論文のように言語で書かれたものや音楽などのように表現されたものだけに限られ、「私の頭の中にあるもの」のような表現されていないものは対象とならない。人間の創造物はもともと頭の中に浮かぶものだから、着想の権利は表現される前に存在するが、そうなると、「すでに考えがあった」と言えば権利は無限大になるので、表現したものに限定されている。
次に「引用」であるが、それは著作権法の第三十二条から始まる。
 「第三十二条  公表された著作物は、引用して利用することができる。(後略)」
条文自体は自明なので繰り返して説明する必要はないが、特に注意を要するのは「引用しなければならないのは、著作物(著作権があるもの)」であり、著作権のないものは引用をする必要はない。
私は会社の研究者から大学へ移るときに、著作権法と判例を勉強した。それまでは会社の知的財産部がチェックしてくれるので問題はなかったが、大学に入ったら、おそらく著作権でなにか問題があるかもしれないと考えたからだった。だから法律を勉強して、自然科学の論文は基本的には著作権はないと認識し、さらに、引用するのは自分の論文が厳密になり、読者が原典を調べることができるからと考えて極力、引用はしたが、まさか引用しなければ盗用とは思っていなかった。
小保方さんも記者会見で言っていたが、法律に書いてなく、大学の規則が明示されていなければ、研究室の徒弟制度の中で暗黙の掟を学んでいくしかない。その中には、早稲田大学で言われていたと思われる「コピペはOK」などのものも混在しているので、なにが正しいかは不明瞭である。時には「私の恩師がそういっていた」という類もあるが、学問的厳密さからいえば、「恩師は正しい」とは限らないと考えなければならない。
もともと「あるグループ内の掟」というのはアウトローの考え方で、法律のように社会全体で守らなければならないものを軽視し、仲間内の掟を最重要に考えるという傾向があり、学問のように自由でオープンな社会にはそぐわないと考えられる。
著作権に関する子供への教育では「書いた人の気持ちを尊重しよう」というのが多いが、それとともに「知の財産は人類共通です」という説明もいる。また新聞社などは法令を拡大解釈して「すべての記事は著作権がある」としているが、これも公共性を持つ新聞社としては「知る権利」とのバランスをとる必要があろう。
とかく著作権というものは「権利を持つ側」の論理が優先しがちだが、著作物を読む方も「共通の知を持つ権利」があり、そちらの方が強いことを主張し続ける必要がある。

(平成26年8月2日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年8月3日日曜日

【STAP騒動の解説 260803】 剽窃論 第一章 若干の具体的事件 (その3)



【STAP騒動の解説 260803】
剽窃論 第一章 若干の具体的事件(その3)


5.  第一章の整理この章では過去の剽窃事件を4つ取り上げて簡単なまとめを行った。学術的な書物の普通の章立て(書く順番)は、基礎から積み上げていくので、最初に具体例が出ることは少ない。しかし、「真理は現場から」という私の考えに沿って、まずは剽窃の現場の一部を整理していた。

この4例からわかることは、1)他人の著述などを利用することは多く、利用しなければ学術的な著作はできないし、進歩も遅れる、2)どのように他人の著述を利用すればよいか(何を引用すべきか、どのように引用するべきか)ははっきり決まっていない(後に著作権から見ると決まっていることを示す)、3)全体として曖昧で組織や人によって判断が違うところが多い、という特徴があることがわかる。

その典型的なものの一つにSTAP関連で、早稲田大学の委員会が報告書要旨の最後に書いた次の文章が混乱をよく示している。


ここには「転載元」を示さずに、「他人作成の文書を自己が作成した文章のように」利用するのは、「論文等」において「決して許されない」とある。

学問は厳密性を第一にするので、その学問を罰するのだから、特に厳密性が必要である。つまり審査の対象となる論文の厳密性を判定するのだから、自らが厳密でなければならないのは当然でもある。その意味で、まず「転載元」というのは、論文、報告書、社内報告、出版されていないもの、著作権のないアメリカ政府の文章などどのような範囲かが不明であること、第二に、「著作権のない文章でも引用をしなければならない」とか「報告書やネットの情報はどうするか」について、学生は事前に知らされていないという曖昧さがある。

つぎに、「他人が作成した文章を自己が作成した文章のように使う」との表現は、そのまま読むと「とんでもないこと」のように思うけれど、自分の書いた文章で、特に事実に類することは一言一句、読んだものと同じことが多い。たとえば「**というドイツの教育大臣が」という文章はだれが書いても同じ文章になってしまう。

そうすると、他人の文章を読んでから自分の頭で別の文章にしなければならないが、それが可能かどうかは書くものによる。また最近では「孫引き」(もともとの文章を複数の人が書く)が多いので、もしかすると自分の文章と同じ文章があるかもしれない。小保方さんが使ったNIHの文章はもともと自由に使えるものだが、さらにNIHの文章自体がどこかの文章をまねて作られている可能性が高い。このようなことは時々、裁判になることもあるが、「実験結果など事実を記載する場合、だれが書いても同じ文章になる」という理由で、文章が似ているからといって問題ではないという判決になる。著作権は「思想又は感情に基づく創作物」だから、事実記載のものに及ぶのかはかなりの議論が必要だ。

また、「論文等」では許されないけれども、ブログやレポート、社内報などはよいのか、それとも厳密に剽窃が禁じられるのは、「査読付き論文」に限るのかも不明である。この論文とは正式に「学術論文」と名の付くものなのか、それとも「査読付き学術論文」なのか、反対に「外部に発表する書類の記載事項」に限るのかでも大きく違う。このブログでも教育の節で論じるが、教育中に書く「卒業論文」ははたして「論文」か、さらには「学生本人の著述物」なのかもまだ合意されていない。

最後に「許されない」という表現があるが、誰が「許さない」と決めたのかという問題である。私の著書「正しいとは何か」には、正しい、つまり何が許されないかは、宗教や道徳を別にすると、倫理(相手に聞く)、法律(社会の約束)という二つしかなく、それ以上の基準を任意に決めるのは社会を混乱させるか、あるいは野蛮な社会ということになる。

ここで、「倫理」は一般的に道徳のように考えられていて、道徳は「孔子様が言った」ということが基本だが、倫理は「倫」は相手という意味であり、相手が了解するかどうかで決まる。つまり相手の理(ことわり)だから、倫理の黄金律は「相手のしたいことをしなさい」、もしくは「相手のしてほしくないことをしてはいけない」というものである。

論文引用の場合、相手は「読者」と「原著者」であるが、読者は参考にするために引用元が書いてある方が便利だということだけなので、「許されない」ということではない。また、原著者は著作権のある範囲でしか引用を求められないので、原著者も引用を求めることはない。ということは、「他人の書いたものの無断使用」は、「誰がだめというのか」という主体者がはっきりしない。おそらく、「同じ文章を使われる人」ということになるが、第一章の国立研究所長の剽窃問題の場合、引用はしていないが原著者は同意をしている。

つまり、「許されない」というのは早稲田大学の委員会が任意に決めたものだから、その場合は、「なぜ、許されないのか」を論理的に述べ、それについての一般的な合意を得る必要がある。

この第一章はイントロダクションなので、現場の状態を理解し、概要をつかむにとどまるが、それでも「剽窃」とか、「やってはいけない」ということが実にあいまいで、難しい内容を含んでいることを指摘して終わることにする。

(平成26年8月3日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





2014年8月2日土曜日

【STAP騒動の解説 260731】 剽窃論 第一章 若干の具体的事件 (その2)



【STAP騒動の解説 260731】
剽窃論 第一章 若干の具体的事件(その2)


 3.京極国立研究所長事件

2010年、朝日新聞が「国立研究所長の盗用」として約23年前に京極所長が書いた論文の一部に「他人の論文の盗用」、「使い回し」があったと報じた。日本の福祉関係研究の主要な学者であったこともあり、報じたのが朝日新聞ということで、多くのメディアが追従した。

この事件は彼が厚生省社会局専門官であった時代に、複数の専門家に社会福祉の国際比較を依頼、その報告書から抜き出したものだった。彼は国が調査を依頼して、その結果提出された報告書は「論文」とは違い、それを自由に利用してよいと認識し、研究者にもその旨を口頭で了解を取って利用したので、引用しなかった。

事件は単純で、名誉棄損の裁判になり、朝日新聞側が謝罪する内容で和解しているが、本人は大学の学長でもあり、名誉は著しく低下し、その残念な気持ちを次のように述べている。

「最後に、私は、厳格なキリスト者である恩師・隅谷三喜男の弟子である私の研究者人生において、他人の論文はもちろん、アイディアですら無断引用したことはなく、むしろ、先行者の文献をできる限り引用注などで表記するよう最大限の配慮を行ってきたことは自負しているところであり、また、見識ある研究者の間では、他の福祉系研究者と比べて、かかる配慮が私の論文の大きな特徴であることは周知されているものと認識しております。

これは、私の著作集を垣間見ていただくだけでも明らかです。それだけに、本件記事が大きく報道されたことによって、私がどれほどに悔しい思いをしたか、私の社会的な評価がどれだけ低下したかは、図り知れないところであります。」(京極さんのホームページより)

この事件はいわゆる「盗用」という場合に、それが「論文」のように公的にある要件(査読や出版など)を満たしている文章だけなのか、それともある組織の部内に提出されたものも含むのかという曖昧なところから起きたものである。

そしてSTAP事件でも見られたように、「論文」、「盗用」、「使い回し」などの扇情的な用語が事実とは違う形で新聞紙上の載り、事実をよく見ないメディが追従するということが行われた。

(注) 私が書いたこの文章はかなり私自身の文章の部分が多いが、京極さんのコメントは「無断引用」(京極さんにここに引用することを断っていない)である。

これは私が長い執筆生活で、最初の頃はこのような場合、いちいち、ご本人やご遺族のアドレスや住所を調べ、ご本人の了解を取ろうとしていたが、ほぼ99%はご返事がなかったり、住所がわからなかったり、亡くなっている場合にはご遺族がわからなかったりする場合がほとんどだった。そこで10年ほど前から「無断引用」させていただき、何かのご連絡があれば、そこで承諾を得たり、承諾が得られなければ削除しようとしている。

私は10年で膨大な書籍やブログなどを出しているが、まだご連絡を受けたことがない。私の感じでは、よほど誹謗中傷にわたらなければ、日本の文化の場合、意図的であると相手が思わない範囲では、むしろ問い合わせても「何を問い合わせてきているか理解できない。良いに決まっているじゃないか」ということが多いようである

4. STAP細胞事件

2014年におこったSTAP細胞事件には、二つの剽窃疑惑があった。一つは著者の一人である小保方春子さんの早稲田大学時代の博士論文の剽窃、またネイチャーに掲載された論文の一部の文章が他の論文の記載と類似しているという指摘である。

早稲田大学の方は正式な委員会も開かれたが、「不正であるが、審査に問題があった」ということで博士号の取り消しはされなかった。またネットでは、早稲田大学の博士論文では剽窃は日常的であるとして、小保方さんが所属していた常田研究室のほか、西出、武岡、逢坂、平田、黒田の6研究室で、24名の学生が特定されていて、さらに増えるとされている。

つまり早稲田大学では論文の記述に他人の論文を使用することが行われていて、特に審査はなされていなかったと考えられる。この件について審査に当たった教授などの発言がないので、まだ不明な部分が多い。

博士号の主査は基本的には“D○合”と言われる特別な資格を持つ教授又は准教授しかできないので、かなり学問的にはレベルが高い。それに普通は5人の合議で行われ、一人は学外者が入る。また論文審査、口頭試問、公聴会(学外の誰でも参加できる)を経て、最終的には教授会が認定する(学長は授与だけ)。

このようなことから現在進行形ではあるが、早稲田大学は「他人の論文の使用」を「不正ではない」と考えていたと考えられる。なお、小保方さんが盗用したとされるNIH(アメリカ国立衛生研究所)の文章は著作権がない。これはアメリカ著作権法105条で、連邦政府の著作したものには著作権がないとされているからである。ふつうに考えれば、著作権のないものは「自由に使用してよい」ということなので、早稲田大学で使用したと思う。

ただ早稲田大学の委員会は、「アメリカの著作権法では著作物ではないが、日本の著作権法では政府の著作には著作権があるので、それはアメリカにも及ぶ」という奇妙な論理が説明されている。

(注) ここでは、直接的に私が文章を写したり、ほぼそのままの内容になっているところはないが、早稲田大学の博士論文に剽窃があるという情報については、「弁護士ドットコム」というサイトの孫引きである。著作権法的には問題はないと思うが(後に著作権法については整理する)、このブログのようなものが「剽窃をしてはいけない論文」であるかどうかは不明である。

つまり、京極さんの場合も「報告書と論文」の違いがあり、この場合は、「ブログ記事と論文」の差である。私も論文を書くときには(あまり本意ではないが)引用をするが、一般書籍やブログのような場合は引用しない。「引用する」と言っても、「引用の作法」があり、著者、雑誌名、巻号、ページ、発行年などを記載する必要がある。

また近年、すこし変わってきたが学会の多くはネットからの情報を引用として認めないことがある。これはネットの情報の信頼性が低いことと、ネットは不意に情報を見ることができなくなるという特徴があるからだ。しかし、すでにネットで提供される情報は多く、それを引用できないというのはかなり問題も含んでいる。


(平成26年7月31日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




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